オタクはなろうとしてなるものではない。気づいたらなっていた、客観的にみると自分はオタクに当てはまりそうだ、というような、事後認識的なものである。
オタクとはもはや、「特定の趣味に埋没している人物」を指す言葉ではない、ということを認識すべきだ。
一言でいえば「リア充か否か」、である。
他者とのコミニュケーションが円滑で、基本的には自己肯定感を持っている人物が、「おれ、アニメ好きなんすよ~」と言ったところで、それは単なる「趣味」に過ぎない。まわりの人も、「えー、意外ー。全然オタクっぽくないのに~」という反応を示すのが一般的だ。
逆に、コミュニケーションが不得手で、学校の教室で浮いていたりいじめられる経験を持ち、劣等感とルサンチマンに苛まされる人物がいる。社会から疎外された、「社会不適合者」だ。そういう場合、いわゆる「オタク的趣味」を持っていなくとも、「え、○○君ってオタクだと思ってた。意外…」という反応をされるという。(このような事例は掲示板の書き込み等でしばしば見かけるが、私は実際には経験していない)
すなわち、「オタクか否か」を決定しているのは、「リア充か否か」、「社会不適合者か否か」、もっと踏み込めば「キモいかキモくないか」、である。その人物の趣味嗜好の対象がオタクかどうかを決めるのではない。もっと内的な性質によって判断されている。
社会からの疎外感を持ち、劣等感を抱える人間たちの求めるものが、現実逃避としてのアニメやゲームやマンガ、ネットである「可能性が高い」だけである。「アニメやゲームやマンガ、ネットをやる → オタク」という図式は当てはまらない。
だから、そもそも、オタクとは"自己否定する存在"なのである。自己否定のない「オタク」は<オタク>ではない、と断言できる。
もともと社会に疎外されていることをアイデンティティとしている、せざるを得ないからこそ、「オタクに権利を!」などと社会に向かって主張することなどできるはずもない。それはもはやオタクではない。
自己は社会にとって「悪」だと認識しているからこそのオタクなのだ。「キモい」と他者から思われることを熟知しているからこそ、できるだけ「表」にでないようにする。石の下の虫たちのように、ひっそりと暮らしている。時折、「表」に出て(テレビなどで)自己主張をするオタクに対しては、オタクたちから総バッシングを受ける。オタクとは、本来的に匿名性を保とうとするものなのだ。なぜか?「キモい」から。
ゆえに、青少年なんとか問題で、オタクは行動することが出来ない。権利を叫ぶことが出来ない。強者のお情けとお目こぼしを期待するしかない。
かつてのオタクのステレオタイプが「暗くて気持ち悪い非コミュ」というイメージなだけで、 ライトオタクが増えている昨今の状況が長く続けば、そういうステレオタイプも次第に薄れ...