2009-12-29

音楽は私の手をとって、一緒に触れてくれたんだ

27歳男性、朝ipodを聞きながら出勤してふと思った。

「『音楽に支えられる』って表現は良く聞くけれど、その言葉自分を対象に考えたときに、あまりしっくり来ないなよな。」

自分はコアな音楽フリークではないし、細かな演奏の違いだとか音質の違いだとか正直言ってよくわかんない。けれども音楽は好きだし、音楽に助けられたって想いはある。それでもやっぱり・・・・・・後ろから支えられたんではないよなと言う感覚があった。自分は歌詞でCDを選ぶほうだ。好きなアーティストCDは買うってルールはあるものの、普段はジャンルや曲調は問わずにバラバラにレンタルして聴いている。

「今凄く引き込まれている」。そう感じるとき、胸は苦しくってじんわりと嫌な汗をかく。ドキドキして、まるで胸を鷲掴みにされてしまったよう。特に自分に響く曲の歌詞は、人間のずるい部分や、いやらしさ、醜さみたいなものを、死や絶望現実残酷さを、ダイレクトに力強く表現してくれるものだ。希望ばっかりを声高に叫んだり、愛だ勇気だ自由だなんていわれても、(たまにそう思うことはありますけど)なんだか引いてしまって、自分が集中して聞いているという感覚は得られない。

一歩ひいて考えてみると、私の好きな曲たちは、自分が目をそらしたいと思っているものを歌詞にしている。自分だけで考えているだけでは、「醜さ」「いやらしさ」「死」であったり、「異常性」というものを、咀嚼して消化することはとてもじゃないけどできない気がする。今は、すこし年をとって内省できることも増えたけれど、思春期から青年期前期にかけては、ただでさえ悩める年頃なんだから非常に難しかったと思う。

それでも、音楽はしっかりと私にぶつけてきてくれる。「死から目をそらすな、お前も醜さを抱えているんだ」と。私の手をとって、彼ら自身も苦しさを感じながら共に触ってくれる。一人では見つめられないものが、どんな形をしてて、どんな質感・温度なのかを、共にたしかめてくれる。そうして、「本当は、俺も恐いんだよ。」というメッセージまでくれる。そう、音楽は一緒に触れてくれていたんだ。

音楽に限らず、マンガ小説、絵画、映画にもそういう側面はある。そういったものを通して、自分の中のモヤモヤを咀嚼し、置き場所をさだめ、それらを携えながら生きてこれたんだろう。迷いや不安は現れつづけるけど、それに触れながらこれからも生きていくんだろう。

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