たとえば「階層」や「階級」のある社会では、物心ついてすぐに「自分は彼、彼女のような人生は決して手に入らない」と分かる。そしてその時点で一定の職業や生活については諦めざるを得ない。
べつに人生全部を諦めて絶望する必要はない。しかし一定の年齢で、たとえばイギリスやフランスに生まれていれば小学校の終わりくらいで、「自分にはオックスブリッジやグランゼコールに言って、エリートキャリアを手に入れて、高給が約束された職業を得るのは無理だ」とわかる。
韓国みたいに財閥や富豪の家族が結構いる貧富の格差が激しい国も同じでしょ。インドでも法律で禁止されているとはいえ、国内で生きる限りカーストはまだ大きく影響していそう。中国だって同じ上海に生まれた子供でも、上海の戸籍があるかどうかで人生は大きく分かれている。
でも日本だと、小学校や中学校のクラスの中で、「○○君には可能な人生だろうが、俺には無縁だな」と思うことって少ないんじゃないかな。子供の貧困率は15%前後らしいから、反対に言えば85%は人生において何かを諦めたりはしていない。
「階層」や「階級」のある社会では、物心ついてすぐに「自分は彼、彼女のような人生は決して手に入らない」と分かるのだが、ある時期にさしかかるとレールの切り替えは一応できる。今回はそんな他愛のないお話をどうぞ。
賢い大人が私の周りで「諦観」を勧めてきた。いはく、「早々と諦めなさい」ということである。
しかし諦めるにはきっかけがいる。文章を書くことが好きだった私は通算二度の「諦観」を得る。一つは就職をすればネットで文章を晒せるよと言う「諦観」であり、もう一つは就職が難しいなら文章で食べればいいじゃない――という一つ目の「諦観」である(こちらはお世辞にもいいとはいえないと思う)。このように「諦観」や「諦め」とはきっかけがなければ手放せない。バスケットボールの選手になりたかった人が今では小学校のコーチを行っているというのも一つの「諦観」ではないだろうか?
賢い大人というのは「諦観」の手順を教えてくる。愚かな大人は「諦めなさい」という。私の周りにはおおよそ二種類いたように思う。賢くても打開策が何であるか教えられない人もいた。その中で「文筆」や「作曲」や「絵描き」の三つは何も「職業」に直結する必要はないなあと思うのが「諦め」である。結局、どんな大人たちも素早く選択肢を広げられるように、「夢の代替手段」を説いていたように思う。そのために「勉強しなさい。資格を取りなさい」などなどなど。
**でなければならない、という人はしばしば視野狭窄に陥っている。確かに、高収入を得られる人々も限られている。しかしながら、高収入を得られないからといって低学歴に甘んじてしまうのは選択肢を狭める結果にしかならない。要するに、お勉強はした方がいいわけであるし、活動もやった方がいいし、訓練も積むべきである。それらの資産をある程度蓄えた段階で次のステップに「高収入は無理だけれど、やりたいことをカバーできる選択肢を模索する」ということは十二分に可能である。常に、第二希望、第三希望を用意するために「早めに諦めた方がいい」というのは納得出来る。夢を諦めるのはそれらの希望が増えたという時期のことだろう。金銭を重視するか、中身を重視するか、人間を重視するかによって早々に初期希望から乗り換えなさいと言うことか。無理だと分かって打ちひしがれたときに対処しては遅い。
……やってみたけれど、中身はこんなところだと思う。無駄に大人の言葉を長くした感じ。
私用と大して変わらないのはお許し下さい。この程度の能力しか有さないので精進します。