2009-07-07

ファーストキスの思い出

その相手、仮にXとしよう。彼は生白い肌にのっぺりとした顔立ち、常に乏しい表情で、たまにくぐもった不明瞭な発声で片言を発する以外にはぼんやりと席に座り、教室移動や下校の時間になるとのっそりと動き出して上肢を揺らしながらふらふらと歩いていくのだった。鼻の下には鼻水の垂れた跡、口元には涎の跡が常にこびりついており、服には食べこぼしの染みが点々と付いていた。

彼とは何故か、何度席替えがあってもいつも隣の席になるのだった。私はその度に彼とは机を数センチ離しておいた。彼と同じクラスになる前は、いつも私がそうされていたように。しかし、その度に周りのクラスメート達は「なにやってんだよ、増田、Xが可哀想だろ」「そうだよ、仲良くしてあげなきゃ」とか言っては、机をくっつけ直すのだった。私がまた机を離しても、いつも元通りになっていた。

彼は、授業中、たまにぼそりと話しかけてくることがあった。「教科書、貸してよ」「消しゴム貸して」私は無視することに決めていた。一度、彼に鉛筆を貸したらその口に咥えられ、唾液でびしょびしょにされて返されたことがあったからだ。「貸してやれよー、増田」「そうだよ、Xくんが困ってるじゃん」「助けてあげなよ、ひどいねー」クラスメートから口々に非難されても、私は拒んだ。「増田さん、どうして貸してあげないの? 冷たいのね」教師から問い詰められても、言うとおりにするわけにはいかなかった。

やがて、クラスメート達からは空き時間の度にこう囃されるようになった。「X、増田のことが好きなんだってー」「そういえば、いつも席隣同士になるからね」「増田もXの事、好きなんじゃね」「付き合っちゃえよー、変な奴同士、お似合いだもんな!」私は「違う! やめてよ! 私はXくんなんか好きじゃないのに!」と怒鳴っていたが、その度に「照れんなよー、ほんとは好きなくせに」「そうだよ、結婚しちゃえよ!」「面白れー、変態同士のカップルじゃん!」などますます盛り上がって騒ぎ立てるので、諦めて黙っていることにした。ただ、黒板や机の上に私とXの名前付きの相合い傘をでかでかと落書きされる度に消して回るだけだった。

ある日の休み時間、図書室に行こうとして廊下へ出た私を男子達が取り囲んできた。また、いつもの「からかいタイム」かと思って黙って身構えていると、「増田ー、お前、Xのこと、好きなんだろ!」「だったら、結婚しろよ、好きなんだろ!」「そうだよ、キスしちゃえよ、キス! 好きなんだろ!」言うなり彼らは私の腕と服を掴んだ。そして、別の男子の一団がXを教室から引っ張ってきていた。彼は相変わらずぼんやりとした表情のまま、だまって引きずられていた。そしてXは藻掻いている私の前に引き据えられた。私を捕まえた男子達は「嫌だー! やめて! やめて! 嫌だってばー!」と喚く私の頭を押さえつけ、Xの顔に近づけた。「キスしろよー、X!」男子達はXの顔を私の顔に押し当てた。Xは少し戸惑ったような表情をしていたが、「言うとおりにしろよ! X! 増田キスするんだよ! 口同士をくっつけろ!」そう言われると、無表情で、しかし懸命に私の頬に唇をくっつけた。べちゃっ、と唾液のかかる音がした。

「いいぞ! やれやれ!」「口にしろよ!」「もっとくっつけ! 抱きつけよ!」男子たちがXの顎を掴むと、彼の口を私の口元へ近づけた。彼の鼻水のこびりついた顔面が目の前にあった。彼の唇が私の口元に張り付いた。唾液の酸っぱい匂いと味が伝わってきた。

「やったー、キスしたぞ、キス!」「増田はXとキスしましたー!」「X、おめでとー、これで将来、増田結婚だな!」「これで、増田は『X・○○子』になるんだな」「きっと、キチガイ同士だから、キチガイ子供ばっかり生まれるんだろうなー、面白そうじゃん」「そしたら、また、からかってやろうぜ」「でも、キチガイ子供って、長生きできないらしいよ」…解放された私はふらふらと水飲み場に向かった。必死に口をゆすいだ。水道水の錆びた味で唾液の臭さは消えた。何度もこすり洗いしたので頬がひりひりした。

教室へ戻ると、女子たちがにやにやしながら私に話しかけてきた。「増田さん、Xくんとキスしたんだー!」「違うよ! 男子達が無理矢理…」私の答えには彼女たちは耳を貸さず、「増田さん、やっぱりXくんが好きだったんだね」「ファーストキスじゃん! まだ小学生なのに!」「気持ち悪ーい、私はXくんとなんてぜったい嫌、近づくのもいやなのに。よくそんなこと出来るね。増田さん、やっぱり変だよ。変態だったんだね!」「そうだよ。変態だよ。だから、誰にも相手にされないんだよ。私たちも嫌だからねー!」「ずっと、Xくんといればいいよ。どうせ、他には誰にも相手にされないんだから。変態同士、お似合いだよー!」

私は黙って席に戻った。不思議にも涙は出てこなかった。周りの景色が浮き上がり、自分の周りだけが見えない膜で覆われているように感じられた。Xは何もなかったように席に座り、爪を弄っていた。すべて消えてしまえばいい、早く終わってしまえばいい、と考えていた。

  • はてぶから来たんだが、これが「おもしろ」カテゴリーになってるのが信じられん。どいつもこいつも趣味が悪い。

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