ちょっとした風向き次第で、いくらでも自分が幸せな境遇だと思ったり、不幸せで生きていてもどうしようもないように感じたりする。友人とのほんの少しの給料の差だったり、残業時間だったり、余暇の過ごし方だったり。どんな断片からも想像力は勝手に働く。
ひるがえって、自分よりも明らかに金銭的余裕のない友人たちを思う。彼らがこれからどう生きていくのか、自分の身に置き換えて考えてみる。そうすると途端に寒気が走り、例の“とても生きていけない”という想いに至る。あの閉塞感の漂う地方都市で、解雇におびえながら、来年は今年よりも良いという実感が全く沸かない、いつ居なくなるともわからない誰かの動力の上で身を暖めているだけのような、極寒の環境。
それでも幸せになるためにはどうするか、を安全地帯から考えてみる。趣味の悪いことだとわかっているがご容赦いただきたい。もちろん友人たちには。こんな下卑た思索のことなんか話せない。一応の人格者で通ってはいるのだ。ここでテキストとして吐き出すより他はない。
まず大前提として、幸せになること=お金があること、ではないと定義することからはじめるべきだろう。または、幸せになること=金銭的な成長があることの否定でも良い。去年よりも給料が下がっても、それは不幸せではないと決めることが大事だ。
このように書くと、当たり前のことのように感じられるかもしれない。しかしながら、仕事を首になったときのことを想像してほしい。仕事があったときと同じような顔で友人に会いにいけるだろうか? 少し自尊心の強い人間ならば、仕事を見つけて身を立ててからでないと恥ずかしいと思うだろう。こんな体たらくを友人や家族には見せられない、と考えるのではないだろうか? この恥ずかしいという気持ちが今の世の中では、そぐわないと言いたいのだ。
もはや仕事があって当たり前。お金を稼いで一人前、という時代は終わったと思っている。一度路線から外れると、とたんに二級の生活が待っているひどく狭苦しいシステムの上にいるのだと感じてもらいたい。そもそも路線にすら乗れない人間だっている。その人間たちが、仕事があって当たり前、お金を稼いで家族を養って当たり前、といった脅迫観念にさらされたとき、一体どれほどの精神負荷を感じるのだろうか?
路線の上にいるものからは、月々いくらと言う形で金銭を搾取される。技術革新・便利なツール・豊かな生活という美名の下、ケータイ代、自動車ローン、年金、医療保険、敷金礼金、広告だらけのテレビ番組、質の悪いブームの服飾がのしかかってくる。僕らはなぜか知らないけれど、そういうものを背負って片意地張って、路線から外れたもの同士いがみ合っている。
僕らの熱量を吸って、路線にいるものはますますスピードをあげる。路線から落ちてきたものは便利だけれど、ますます僕らの熱量は吸い上げられる。熱量を失ったもの、生み出せないものは路線にいるものから見放されていく。家賃が払えず、テレビは見れず、パンは買えず、コートも着れなくなっていく。そうして僕らは人生に絶望する。(絶望した者を見て、狂ったように路線にしがみつく者もいる)
おかしくないだろうか?
なぜ僕らは絶望しなくてはならないのだろうか?
路線から落ちてくるものを拾えなくなっただけで。
なぜ僕らの幸せは路線の上に居るもの次第なのだろうか?
ここまで考えて飽きた。
イマイチ「路線」が何を指すのかわからないけど、言いたいことのニュアンスはわかった。 絶望感の理由は、多分現代人の一般的な幸せの定義がその「路線」の先を走るものに左右され...