http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080316/1205641886
上記エントリとブクマを見て何とも言えない気持ちになったので書いた。
備忘録みたいなもの。
勇気を出して解決する問題と言うのも確かにあるだろうが、全ての人間が勇気を持てる、というのは幻想。だから、勇気を出さずに生きる生き方を、元エントリ主も否定まではしなかった。にも拘らず、このエントリの友人は間接的に「だせぇ」と言われたくないなら「勇気を出せ」よ、と言い、このエントリへの肯定的なブクマコメントには、「勇気を出せない人間」を蔑視するものが幾つか見られた。「勇気」を道徳のように扱うことはあまり適当と思えない。
行動を起こさない人は、
・行動する自信がなく、誰かに肩を押してもらいたい。
・行動するという発想・選択肢自体が奪われている。
・行動する手段・方法を見つけられない。
という四種に大別できるが、一番上の人間を除いて、「勇気を出せ」という道徳はほとんど何の処方箋にもならない。行動するという発想・選択肢が何らかの物理的手段や恫喝によって奪われている人間にとっては、より一層苦悩を深め、追い詰めることになりやすい。行動する手段・方法が見つけられない人間にとっては、具体的な手法の解説ではないため、ヒモなしバンジーになりがち。最後の、行動するコストが改善したいという願望より高い、という人間に至っては、「文句をやめて、勇気を出して行動しよう!」なる祝福はむしろストレス発散法を取り上げる結果になる。
決断しないことを「だせぇ」と評し、不満を訴えることを否定する道徳は、むしろ多くの人間を抑圧する。勇者であることを強要されるような社会は、より多数の歪んだルサンチマンを生み出すことになる。(既に2ch等で見られる過激な言動からは、時折そうした怨念が読み取れる)一方で、醜いルサンチマンは、より一層こうした道徳による締め付けを強めていく。そういう意味で、元エントリ主の問題提起は、火薬庫にダイナマイトを放り込むようなものだ。
勇気を持つことは必ずしも素晴らしいことじゃない。全ての人間に、行動することへの強い願望・動機があるとは限らないからだ。行動しても、それに見合った代価がけして得られない、という人間も居る。そうした人間にとって、勇気とはただの罪悪感を縛り付ける錠前に過ぎない。長い長い間、ずっと疎外され続け、希望も、願望も、動機も失ってしまった者。その者達に向かって、「勇気を持って、もう一度行動してみろよ」と無邪気に口にすることは、彼らの「疎外されてきた苦しみ」を冒涜するのと同じ効果を発揮することすらある。苦しみの文脈についての言葉と知識を持たないまま、建前・理念・道徳を説けば、反発を招くのは必然だ。その反発を「道徳」で否定しても、彼らの怒りはより深まるだけ。「希望が戦争」という主張が示す通り、虐げられた者達が「勇気を持って」社会全体に憎悪を向けることが望みなら、また話は別だが。
全ての人間が勇気を持つ、というのが幻想である以上、当人の置かれた環境によって変わりやすい個人の性質に期待するよりも、社会のシステムが人間の弱さを補う方がよほど合理的だし、うまくいく。そして、実際に人類はそうやって制度を進化させてきた。それを忘れて、個人の努力と勇気に頼ろうとするなら、その社会の先は長くない。
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