2007-11-27

おーい、はしごたんよ。

 聞く耳を持ってくれるかどうかはわからないけど、一応書くだけ書いてみるぞ。

 今のおまえさんの様子を見ていると、俺はなんとなく20世紀ユダヤ人歴史連想してしまうんだ。

 イスラエルを建国した当時、ユダヤ人と言うのは確かに虐げられた民族以外の何物でもなかった。でも、それから60年間の歴史を見通して、現在イスラエルはどうだろうか。むしろ他人を虐げる側に回って、しかもその行為を

「かつて自分達は虐げられていたから、自分達の生存のためには全てが許容される」

という形で正当化しているのではないだろうか。

 現在イスラエルの全てを肯定して無批判に包み込むだけが、イスラエルとそれに関係する全ての人を救う道だとは、俺にはとても思えない。イスラエル政府パレスチナアラブ人を扱うやり方が、ホロコースト体験によって全て正当化されるとも思えない。

 はしごたんに対しても、俺は同じことを思う。俺はおまえさんの過去を追体験することなんて出来ないが、それを軽んじる気は全くない。でもそれは、おまえさんの過去に関わっていない人を攻撃の的とすることを正当化するのだろうか?

 まあ、イスラエルの話は脇に置いておくとしてもだ。

 そんなおまえさんを誰かが全肯定して包み込んでくれるなら、確かにその時は気持ちがいいかもしれない。救われた気にだってなるかもしれない。それを否定はしない。

 でもさ……その後どうすんの?

 もしその後を考えずに、その場その場の救済だけに人生の全力を集中するとなれば、例え一晩であれ二晩であれ、おまえさんはMasaoに人生の全ての重みをかけた救済を求めるってことになるんじゃないの。そんなむちゃくちゃヘビーな荷物を他人に負わせて、いったいどうすんのよ。

 それに、その一日か二日が終わった時、おまえさんは相手(Masaoであれ誰であれ)に背負わせた人生の重い荷物をもう一度背負いなおして、帰りの電車に揺られて帰らなきゃならないわけだけど、一度降ろした荷物をもう一度背負って、家路につくことが出来るの?

 はっきり言って、いまのはしごたんにそれが出来るとは、とても思えない。一度重荷を降ろして身軽になって救われたと感じた人が

「さあ、これで救済の時間は終わったから、また重荷を背負って帰りなさい」

と言われて、はいそうですかとはなかなか言えないと思うぞ。

 イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28新共同訳)と言ったけど、もしその数日後にイエスが「さあ、私はこれでいなくなるから、また重荷を背負って家に帰りなさい」なんて言おうものなら、多分その途端に教団は分裂して、その後のキリスト教なんて生まれてなかったろうな。

 実際には当のイエスが処刑された後でさえ、遺された人々は復活神話まで作り上げて、重荷を軽くしてくれた神の子の下になおも留まり続けようとしたんだ。この時に遺された使徒たちによる伝道がその後のキリスト教会発展の土台を作り上げたんだけど、早い話が、イエス本人がいなくとも重荷を恒常的に降ろしておけるような場として、教会システムを整備したわけだ。

 要は、一度降ろした重荷をもう一度担ぎ上げることは、誰にだってなかなか出来ることじゃないってことだよ。はしごたんに限った話じゃなくてさ。

 自分で自分の感情を完全にコントロールするなんて、神ならぬ人間の身にはたぶん無理だと俺は思う。俺自身だってそうだし。

 今は“その後”の感情をコントロールする自信があるのかもしれないけど、俺は今現在の自信をそんなに当てにしない方がいいと思うな。

 まあ、少し考えてみてよ。

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