いいことでありたい。いい社会であってほしい。思うけれど、具体的ないいことの像が結べない。
ならばわるいことを少なくしようと思う。悪いことが少なくなれば、相対的にいいことは増えていくだろうと考えるから。
でも、わるいことがわからなくなる。いや、わからないことはないと思うけれど、本当にそれを少なくしていこうとしていいのか疑問になる。あるいは、本当にそれが少なくできるのか。
違う、違う。そんなことを言いたいわけじゃない。飛躍するけれど、要するに、ぼくがまだ「どうして」病を患っていることに原因があるのだ。
どんなことに対しても、ふとしたときに「どうして」と思ってしまう。
どうして人を殺すことはだめなの?
どうして人の失敗を笑って楽しんでいられるの?
どうして僕は僕として生きているの?
対外的な現象を観察するために、人は数値を扱い始めた。つまりは自然科学であり、数学であり、ありとあらゆる現象に関する事柄だ。理系的な問題とでも言えばいいのか。それに対する回答は、世の中にたくさん転がっているんだろうと思う。
反対的に、内なる事柄、心とか、自己とか、正義とか、善悪とか、そういった国語的な問題。文系的な事柄について、回答はそんなに見つけられない。
違う。見つけられないことはないんだ。これもたくさん転がっているんだろうと思う。しかしながら、その回答が自分に当てはまっているような気がしないから考え込んでしまう。
結果的にそれが当てはまっていたとしても、考えずにはいられないのだ。
それが「どうして」病。厄介な、それでいて幼稚な病だ。
そういうものだから、とか、考えたところで仕方がない、とか、切り捨ててしまえれば良いのに、できない。
暇だからだし、贅沢だからだ。「どうして」病はとても贅沢な病なのだ。いや、それも違う。「どうして」病を患ったままでいることが贅沢なんだ。本当にとてもとても贅沢で、苦しい、馬鹿げた病気だ。
考えなければいいのだと思う。考えなくても生活に不具合はないし、考えたところで生活が良くなるとも限らない。
思想の問題であるんだ。僕だけ一人きりの世界に影響するしかないちっぽけな思想に対する問題。
愚にもつかないことを考え考え、嫌になり、嫌世的になって、自己嫌悪とナルシズムに浸って、一歩も前に踏み出すこともないまま一番最初の姿勢に戻る。
そんなことを何度も何度も繰り返して、どうなるのかもわからないまま今も生きていて、逃げたくなって、だらだらと惰性的に後退しているような、メインストリームから離れていくような、そんなどうしようもない生活でも、きっと僕は誰かから肯定してもらいたくて、あるいは否定されてもいいけれど、これからのことを決定付けてくれるようなことを、たとえ前に進めようが後ろに転落することになろうが、待っているだけで、なおかつその決定に対して心の底からは納得しないような、現状にも不満があるくせに行く末を決められることにも決めることにも不満を持つような、そんな足踏みばかりの現状。
呆れてしまう。きっとよくわかってもいない。誰かに聞いてほしいわけでもないけれど、形あるものとして、とにかく吐き出しておきたい。だから推敲はしない。読み直しもしない。書き捨てるのみだ。
そんな人、昔からいくらでもいるし、今だっていくらでもいる。 君だけが特別だと思ったの? 心配するな。 君は結構凡人だよ。