増田のおとうさんは社員が何万人という企業でそれなりに立派な役職についていた。
一時期は名刺になんとか部長という肩書きが4つぐらいついていた。宴会部長とかではない。
どうも自分で好きに部がつくれるお身分らしかった。
彼は根っからの技術屋でそして、まじめなひとで一生懸命しごとをする人だった。
海外もめちゃめちゃ飛び回っていた。飛び回りすぎるとパスポートに紙が追加されるんだよ。
それくらい飛び回っていた。
そこからさきはもうポジションがよくわからなくなって把握していない。
副社長よりこっちの部長の方が偉いんだよとかいわれても部外者には意味がわからない。
途中から海外住まいになった。
海外やら、新製品やらで苦労したからなのか、年齢からなのか、
久しぶりに海外で会った父親の髪の毛は白くなっていた。
日本に帰ってきてからやってたことの次元もすでにわからなかった。
そうこうしているうちに、いつからか体をおかしくしたようで難病というものにかかっていた。
激務が祟ったのち、とうとうその難病が悪化し数ヶ月の入院をよぎなくされた。
55歳の定年で帰ってきたときには珍しく酔っ払っていた。
社長になりたかったな。
と、彼はそう寂しそうにつぶやいた。
増田は彼ほどまじめでもなければひたむきさもない。
彼の影響範囲はとても広かった。何食わぬ顔して小さな会社にもぐりこんだ。
そして成功したいと思っても出世はしたくないような会社だったので
なにはともあれ、大企業の出世競争をまじめにやると大半は死ぬとおもうよ。
肉体的な意味で。
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おつかれさん。
労基法ってクソの役にも立たないっつーか、建前だけの張りぼて法だよな 誰を守ってるんだ、誰を