2007-05-16

ちょっと思うこと。

仕事をしていると、「非常に申し訳ないけれど、明日これこれこういう図面をくれ」ということが稀にある。そうすると、さすがに外注に投げる時間もなく自分で描くことになる。明日くれ、といわれれば余裕を見て今日中に描いておきたいのが人情今日というのはつまり明日の朝までだ、という心持で頑張る。そうして日付変更線が過ぎ去った時間にようやく完成し、ほっと一息ついて一服していると、夜勤だったり試運転だったりで同様に遅い人と出会う。大体出会った人は言う。

「こんなに遅い時間まで残ってるの?女の子なのに大変だね」

私はちょっと笑いながら、「お互い大変ですね」と答える。

こういう会話の度に、心中引っかかりを覚えるのは私の心が狭いからだろうか。でも思う。私は"女の子だから"大変なのではない。私が女でなかったら、日付が回っても会社にいることは大変なことではないのか?違う。他がどうか分らないが、うちの会社では充分、深夜まで仕事をすることは大変なことだ。私が男でもきっと「大変だ」と言ってもらえる。

なら、性別に関係なく労って欲しい。甘えだと分っていてもそう思うのだ。声をかけてくれた人だって、他意はない。それは分るけれど、同じようなことを言われるたびにそう感じてしまう。

「男なんだからそのくらいがんばれ」も「女の子なのにそんなことして大変だね」も、本質的には同じだろうと思う。性別フィルターは本当に自然に、ほとんどの場所に存在している。それを社会に出て感じている。

女であることによるメリットデメリットもあるし、男であることのメリットデメリットもある。ほとんどの人はそれらを受けて生きているのだと思う。私は女だから女であることのメリットよりは男であることのメリットの方が大きいと思うが、男の人は逆のことを考えているのだろう。けれど男であることのメリットほとんどの人に意識なく受け止められていることに比べて、女であることのメリットは本当に分り易く目立つかたちで受け止められていると思うのだ。

男性ばかりの社会にあって、男であることは何の理由にもならない(だって皆男だから)が、女であることは何かの立派な理由になるのだ。

本当に、私のしたことを、女の子のしたことだという風に見ないで欲しい。

女の子なのによく頑張ってる」それは褒め言葉ではない。私が女ではなかったら、よく頑張っていないのか?

男性が平均10,女性が平均5の何かを私が10の結果でやり遂げたら、「女の子なのに」でも仕方がないけれど、男女の平均が10のところを私が15の結果でやり遂げたら、素直に評価して欲しい。性別に関係なく、それは立派な結果だろう。

たまに、本当にたまに、私は女だからそれなりの評価を受けているだけで、実は全くだめなのではないか、という思いを抱く。そして少しだけ不安になる。

  • タイトルをつけてくれるといい。

  • あんちゃんじょうちゃんじいちゃん 私は10の仕事をしただろうか? その仕事はあなたには出来ない。私にはその仕事は出来ない。 あなたは10の仕事をしただろうか?私は10の仕事をした...

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