私はまごうこと無き貧乏育ちだが、今おつきあいしている方はたぶん中流の上くらいの育ちの方だ。彼は服飾品を買いにいくとき、いつも新宿伊勢丹に行く。私は今まで、イトーヨーカドーやしまむらの服で過ごしてきたというのに。
そんな彼と私を比べてわかったことというのは非常にたくさんあるのだけれど、地味に生き方を変える違いというのがある。
それは、快不快に対する感覚の差だ。
裕福な育ちをしていると、不快なものに対して非常に敏感になるみたいだ。いや、貧乏な育ちをしていると不快感に鈍感になるという方が正しいか。
私は彼とつきあってしばらくした頃、彼が普段着ているシャツが1万円以上するものだと知って非常に驚いた。彼の服は決してハデではなく、デザイン的にもただのチェックのワイシャツや、無地のTシャツに見えたからだ。正直、そんなにお金がかかっているもののようにはとても見えなかった。
しかしそのことを知ってから彼の服をよく観察してみて納得した。まず、生地がしっかりしている。細部の縫い止めなどもしっかりしていて糸の端などは見えない。生地を縫い合わせている部分も柄がしっかりとつながるような縫い合わせ方をされている。これは彼の手入れがいいのもあるだろうが、生地がよれたりしわになったりしていない。
一方の私の服は、首元がよれたり生地がくたくただったりひどいときにはちょっと穴が空いたりとかしている。
両者の服の快適さに差があることは明らかだ。
おそらく彼は私が普段着ているような服を着たら着心地が悪いと思うだろう。私自身が何も感じず普通に着ている服であっても。
彼は努力家でまめだ。そして彼自身が自覚しているかどうかはわからないが、その努力とまめさは彼の快適さを維持するために非常に貢献している。
私はと言えば不快さに慣れているというか、不快さを簡単に我慢できてしまうため、多少の努力と不快さを天秤にかけて、不快な方を選択してしまうことがままある。例えば、部屋の掃除をしなかったり、洗い物を後回しにしたり。
突然ではあるが、私は先日留年をした。そして大学を卒業するための努力をすることと、大学を辞めてフリーターになるかを天秤にかけ、フリーターの道を選びそうになった。貧乏には慣れているから大丈夫。そう思ったのだ。
結局はきっちり大学を卒業する道を選んだのだけれど、私は不快感に鈍感だから、フリーターの道を選びそうになった。彼ならおそらくその両者を天秤にかけることすらしなかっただろう。
だから、快不快に対する感覚の差は地味に人生の明暗を分ける、そう思うし、実は格差の固定化ってこうした育ちの問題が意外と大きくあるのでは?などとも思う。
追記
安物の服が悪いって言ってるんじゃなくて、安物の服をしっかりメンテも買い替えもせずに着たおしている貧乏性が悪い、どうしてそんなに貧乏性でも平気なのかと言ったら不快感に鈍感だからだって話っす。
http://anond.hatelabo.jp/20070320171804
学費生活費自腹っす。
http://anond.hatelabo.jp/20070320164720 自分の怠惰を家庭環境のせいにするまえに勉強しとけ。 貧乏なのに大学に行かしてもらっている立場で、家庭環境のせいにすんな。 学費を自分で稼いでるな...
日がたつにつれ不健康になる。皮膚が黒ずんでくる。一番身近な人の健康が脅かされる。ブラジルの土着の悪霊が取り付く。 ブクマコメントに「ささまか」と書くと呪われない。 http://b....