2006-12-29

妄想科学日報の人は何が人をニセ科学に向かわせるのかを全然分かってないように思う。

http://d.hatena.ne.jp/DocSeri/20061228/1167272368

以下上記エントリから引用

かつて川端裕人は竜とわれらの時代の中で、古生物学の権威でありながら創造論に傾倒するアメリカ人学者を描いた。人口の8割がキリスト教徒であり(日本人の家に仏壇や神棚があったり初詣葬儀で寺社仏閣を訪れるレヴェルよりも広く深く)信仰が生活に浸透している欧米では科学者と雖も信仰と無縁ではない。

科学者信仰を持つことを否定するつもりはないが、同時にそれが強固なイデオロギーであることも常に意識せねばならない。判断基準を神仏に委ねた瞬間、それは科学ではないものとなる。

この点では、普段の宗教的行為と信仰意識を切り離して扱うことに長けた日本人というのは、実は一番科学向きなのではないかという気がする-----その割には科学離れが進んでしまっているのだが。

引用終り


この人は一体何が人をニセ科学に向かわせるのかを全く分かってないように思う。(普段読んでないので何か見落としている文脈があったら申し訳ない。と先に謝っておく)

「目には見えない(観測できない)けれど、あたかも何かがそこにあるかのように感じる」というのが宗教の奥底にある。そして、上の例に出てくるキリスト教というのは、キリストの肖像を信仰の場に持ち込むか持ち込まないかで争う例から分かるように、その、一体何を信じるかということに対して、血で血を洗うような抗争を起こしたりもするけれど、その結果それを非常に明確に峻別する宗教だ。(異端と正統)

ニセ科学というのは本来科学で計ったり、観測できないことを、あたかも科学的に計量できるかのようにふるまうことだと個人的には理解している。

そして、ニセ科学は、本来なら(観測できないんだけれど)「ある」んですよ、と主張するだけの、信じるか信じないかで済む問題を、科学的に裏づけされている(勿論されてない)から「正しい」「信じるべき」なんだ、という押し付けがましいことをする。上に書いたキリスト教はそれをやらないで、観測できる科学と、宗教は別々のものですよ、という方向にいった。これは評価できる。(キリスト教聖書に出てくる事柄を科学的な側面から裏付けられないか、という視点で科学を発達させてきたという歴史がある。)

つまり、目には見えないけれど信じている対象を具体的に了解する、何に対して信仰するかを明確に決める、ということはニセ科学を見破る手だてにもなりうるし、その逆もまた言えるということだ。

「観測できることじゃないけれど、そこには確かなことがあるんだよ」というのは凄い安心する。だからこそ、その対象はできるだけ明確でないと危険である。日本人信仰を明確に規定しないことの善悪は問えない。けれど、そのことが「科学向き」とは到底思えない。信仰の対象が「科学」となってしまうことがあるからだし、そのことこそがニセ科学への危惧だと思う。

(30日午前四時四十九分に日本語が不自由だった部分を修正しました。)

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