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2013-09-19

http://anond.hatelabo.jp/20130919170741

承前


斉藤由貴デビューシングル『卒業』を発表した1985年2月、同名のシングルが他に2作、チャートインしていました。菊池桃子『卒業』尾崎豊『卒業』です。毛色の違う尾崎別にして、ここでは斉藤菊池斉藤『卒業』菊池『卒業』比較してみましょう。

80年代女性アイドル格付」では私は斉藤を8位、菊池を9位にしましたが、記録上の実績では菊池の方が上です。菊池オリコン1位のシングルを6枚出していますが、斉藤は『青空のかけら』1作のみです。ただし、1985年から1989年まで、年間の順位で菊池斉藤を上回ったのは1985年のみで、菊池1988年1989年には年間100位以内にチャートインしていませんが、斉藤はしています斉藤の方が息が長いアイドルだったことがうかがえます

1985年菊池の全盛期で、菊池『卒業』オリコン1位になっています斉藤『卒業』も6位ですから新人の実績としては大健闘だったのですが、その時点では菊池版の方が実績を残したのも確かです。しかどうでしょうか、あれから30年近く過ぎて、言及される頻度が高いのも、記憶に残っているのも斉藤『卒業』の方ではないでしょうか。それは楽曲としては斉藤版の方が出来がいいからだと思います

松本隆はもちろん松田聖子プロデュースで知られますが、聖子以外に提供した楽曲の中にも佳作傑作はずいぶんあって、石川秀美『ゆ・れ・て湘南』、薬師丸ひろ子Woman~"Wの悲劇"より』、斉藤由貴『卒業』情熱』は白眉の出来です。

斉藤『卒業』で好きなフレーズは、

ああ 卒業しても友達

それは嘘ではないけれど

でも 過ぎる季節に流されて

逢えないことも知っている

のところですね。集団から浮き上がっている、集団の中では流されない冷静な批評眼が提示されています

これは私のある種の偏見かもしれませんが、女性による批評評論の多くは自己憐憫主観が強すぎて読むに堪えません。平均のライン男性よりもずっと低い。けれども最高水準の批評家何人かを選べと言われればおそらくそれは女性ばかりになるでしょう。批評に限らず創作でも感じることですが、女性全般の平均は低いけれども最高水準の女性書き手男性トップ比較してもなお傑出している。そう感じることが多々あります

斉藤『卒業』における松本隆作詞は、そうした女性の高度な批評眼を的確に捉えています。彼もまた超一流である証です。卒業と言う感傷の中にある冷静な眼差し、これを書いた松本隆もすごいし、これを歌わせようと思わせた斉藤由貴もすごいですね。菊池桃子『卒業』もいい曲なんですが秋元康は男目線なんですよ、やっぱり。松本隆はさすがに年季が入っているだけあって、頭がいい女性批評眼と言うか冷たさと言うか冷静さ、しっかり捉えていますね。けれども、これを菊池桃子が歌ったら似合わないと思いますから秋元康菊池桃子と言うフォーマットに沿った詞を作っただけかも知れません。

ただ、菊池桃子『卒業』斉藤由貴『卒業』ヒロイン立場は似通っているんですよ。どちらも、付き合っている/付き合ってはいない、は別にして初恋男性を都会(東京)へと送り出す立場です。

菊池『卒業』では、

4月が過ぎて都会へと

旅立ってゆくあの人の

素敵な生き方

うなづいた私

何だか物足りない、妙に物分かりがいい感じがします。対して、斉藤『卒業』では、

セーラーの薄いスカーフ

止まった時間を結びたい

だけど東京で変わってく

あなた未来は縛れない

とより主体的な、色彩の豊かな表現になっています

諸般の要素があるから一概に作詞家の優劣はつけられませんが、出来上がったラインだけを見れば、『卒業』合戦松本隆圧勝なのは明らか、少なくとも私はそう思います。ただ、菊池桃子の歌ではヒロインぼんやりとしているのはわりあい一貫しているんですね。『Broken Sunset』では彼氏からいきなり「他に好きな人が出来た」と切り出されても、「泣かないように目を閉じた」、それが精いっぱいの感情表現なんですね。重要なのは菊池桃子にこういう歌を歌わせたい、こういう歌を歌うべきと作家製作者が考えてサジェストした歌がそういう歌なんだということです。

女性なり女子なりが持っている批評性をみじんも感じさせない、幼女のような聖女のような、どこか現実離れした世界菊池桃子は歌っています。男目線少女の歌ですね。

対して、斉藤由貴楽曲ヒロインは遥かに色彩が豊かです。デビュー曲『卒業』からして、片思いの相手に対する批評が含まれています斉藤由貴はそういう歌を歌わせたくなる、躍動感のあるアイドルです。

斉藤由貴個性が、ライターを刺激して、それが結果的に神曲ばかりになった、ライター歌い手幸福な結合が斉藤由貴楽曲にはあります


女優としての斉藤由貴キャリアを考えてみましょう。

斉藤由貴は一般に演技が上手な女優と見られています。もちろん下手ではありませんが、まず役柄の幅が狭い。活発でお転婆な少女女性)が困難にたいあたりでぶつかって、周囲を動かしてなんとかなってゆく。このタイプの役、仮に斉藤由貴型と呼んでおきますが、こう言う役が非常に多い。

この型の初出は、1985年に放送されたNHK銀河テレビ小説『父(パッパ)からの贈りもの』です。これは日本最初期のコメディエンヌ文学座の重鎮だった新劇女優演出家だった長岡輝子自伝テレビドラマ化したものです。長岡輝子テレビドラマでは『おしん』の加賀屋大奥様役(おしんに文字を教えた老女)で一般には知られています斉藤由貴が出演した連続テレビドラマでは『スケバン刑事』の次、『スケバン刑事』の放送期間中に撮影・放送されたものです。

長岡輝子の父は著名な英文学者で、洋行のたびにお土産を買ってきてくれる、娘思いの父親でしたが、長岡女優になりたい、そのためにパリで芝居修行をしたいと言うと、後押しをして費用も出してくれた、それが「父からの贈りもの」だった、そういう話です。『はいからさんが通る』っぽいというか、非常に『はね駒』的です。斉藤由貴の演技は、この斉藤由貴型、スケバン刑事型(『野球狂の詩』『スケバン刑事』『和宮様御留』『新十津川物語』)、その他型(『小公女セイラ』など)に分けられるとすると、圧倒的に斉藤由貴型が占める割合が高いです。

はね駒』も『あまえないでョ!』でも『はいすくーる落書』でも『吾輩は主婦である』でも、『八代将軍吉宗』や『同窓会』でさえ、基本的には同じ演技、同じキャラクターです。敢えてスケバン刑事型と分けたのもしいて言えばという話であって、ああ、いかにも斉藤由貴の演技だなと思わせるには違いありません。2012年朝ドラおひさま』でも基本線を踏襲していたのには、ある意味、さすがだと思いました。

丹波哲郎がかつて言っていたのですが、キャスティングの時点で、この役はいかにもこの人に合うと思われてキャスティングされているのだから、余計な役作りは不要自分自身がその場に置かれた状態で演じればいいと言っていました。一つの方法論としては分かる気がします。斉藤由貴が役作りをどう捉えているのかは別として、結果的に役を自分の側に引き寄せる人だと思います

役の後ろに斉藤由貴が見えて興醒めだ、というのではないんです。「役を自分に引き寄せる」型の人にはそういう人がいますね。そう言う人は多分、役それ自体に対する理解が足りません。他人に対するアンテナが弱いんじゃないかと思います本質的ナルシストの人は役者には向いていません。

斉藤由貴は役として非常にリアリティがある演技を見せています。ただ、そのリアリティ斉藤由貴と言うフィルターを抜きがたく感じさせる、そういう意味ではたぶん、役そのものとは違います斉藤由貴が実際にそう言う立場だったらこういう反応を返すだろうという意味では非常に説得力があります。ただし、そのリアクション斉藤由貴以外では再現不能という意味おいて、役そのものには根差していないのです。

もちろん、役者の演技なんて誰の演技でもその人以外には、その人であっても再現不能じゃないかと言うならばそうなんです。その通りなんですが、自分と言うフィルターを演技の構築の上でどれだけ重視するかどうかで、役そのものからロジカルに構築するタイプと役を自分に引き寄せるタイプに分かれるのではないか、そう思います。その分け方ならば斉藤由貴は明らかに後者ですね。


続く

http://anond.hatelabo.jp/20130919170749

2013-08-27

マスダ80年代女性アイドル論~中森明菜

80年代女性アイドル格付

http://anond.hatelabo.jp/20130821065806

を書いたマスダです。

今日中森明菜について。

(追記)

こちらを見落とされている方が結構いらっしゃるようなので。

マスダ80年代女性アイドル論~松田聖子

http://anond.hatelabo.jp/20130825215309

今回は松田聖子論に続く「第2回目」です。「80年代女性アイドル格付」の順位順に書いています。次回は小泉今日子です。


松田聖子もずいぶん批判されましたが、今になってみれば、いったい何が批判されたのか、よく分からないところがあります恋多き女性という印象もありますが、婚約結婚を含めて彼女は4人の男性と法的なパートナー関係を結んだ経験がありますが、いちいち結婚という形をとりたがるのは彼女価値観の基盤が実は案外保守的からです。パートナーに対して彼女が求めるのは第一に学歴を含む社会的な地位で、判断基準は「父親が認めてくれそうな男性」というところにあります郷ひろみ芸能人の中ではインテリ志向であるし、大学中退英語も話せるので、聖子は父親の眼鏡にかなうと思ったのでしょうが、結果的には無理で、それで両者の関係は破綻したのでした。聖子はそういう時には、しょせんは他人である恋人よりは父親を選ぶ女性です。

久留米に在住していた高校時代彼女久留米付属高校男子生徒と交際していたという説と、暴走族男性と交際していたという説がありますが、後者はまず考えられません。父親が許すはずがないからです。

聖子に対する批判は「女性が主体的に取捨選択をする」という生き方に対する批判で、そういう生き方一般的になった現在松田聖子批判は一体何だったんだろう、という思いがします。人格や対人関係において聖子が批判されることは少なく、あるのは分かりやす嫉妬、あるいは批判者の自分価値観において相容れない部分があるからでしょう。聖子に対する批判者として有名だったのは(後に和解していますが)和田アキ子で、基本構造スケバンぶりっ子を毛嫌いするという分かりやすい形をしているのですが、和田アキ子は実はそんなに単純な人ではなく、ホリプロ代表するタレントとしてホリプロ経営者的な視点で批判を強めたり弱めたり、批判しなかったりしています。かつてホリプロに所属し、後に独立した石川さゆりに対して、独立後ににわかに批判を繰り返したのもその例です。大手芸能事務所タレントを批判することは基本的にはしない人なのですが、サンミュージック所属タレント例外で、サンミュージック創業者相澤秀禎氏がホリプロとたもとを分かって、ホリプロをいわば「裏切って」独立したことからホリプロサンミュージックの間には静かな確執関係があります和田アキ子による聖子批判は基本的にはその文脈で理解されるべきでしょう。

研ナオコパーティー聖子挨拶をしなかったことについて、「私はあんたたちとは格が違うとでも思っているのかしら」と揶揄していますが、実際に格が違うのですから、これは現実を受け入れられない研ナオコの側の問題です。研ナオコは悪口しか言っていないと言っていいほど、この種のレベルの批判を全方位的に繰り広げていますが、そういう人なんだというしかないですね。

聖子時代象徴になってしまったため、時代に対する批判までをも彼女は引き受けざるを得なかったのですが、他の女性アイドルで批判されることが多かった人と言えば、第一に中森明菜で、第二に南野陽子です。ふたりとも弱小事務所に所属していたというところに共通点があります

けれども、南野陽子はともかく、明菜への批判は、単に事務所が小さかったからでは済まされない、執拗で熱意のこもったものでした。中森明菜はそんなに問題がある人なのでしょうか。

先日、松本伊代堀ちえみバラエティ番組で、82年組は仲が良かった、中森明菜はそうでもなかったけれど、という話をしていました。明菜とは仲が悪かったんですかと話を振られて、堀ちえみフォローしようとして、「仲がいいも悪いも、あんまり接点が無かっただけなんですよ。だから好きも嫌いもないんですよ」と言ったのに対して、松本伊代は「私は嫌いなの」と明言しました。30年以上前のこと、しかも相手は現在病気療養中の人に対してああまで悪意をむき出しにして言うほどのことが果たしてあったのでしょうか。

82年組の中で中森明菜孤立していたのは事実です。明菜と親しかったのは小泉今日子くらいで、初年度の賞レースが終われば、82年組の中で歌番組常連として生き残ったのは明菜小泉今日子くらいでしたから、明菜としては松本伊代に嫌われても何の実害もなかったでしょうが松本伊代がかなり執拗に激しく明菜を嫌っていたのは数々の証言があります

松居直美は、彼女スタッフに対する暴言などで評判があんまりいい方ではなかったのですが、「明菜とは親しくするな」と松本伊代から言われたことを明言しています。そうは言っても明菜普通にいい子だったので、そんな助言は無視した、と言っていましたが。松居直美欽ちゃんファミリーだったので、松本伊代意向など無視できたのです。

松本伊代は区切りでは82年組で、実際のデビューは81年の10月であり、82年組の他のアイドルにとっては既にスターであり、先輩格であったので、82年組の中では自然リーダーシップをとる存在になっていました。明菜孤立したのは松本伊代意向によるところが大きかったのは確かですが、明菜が自ら壁を作るような面があったのも確かでしょう。同じく批判されがちなアイドルであった南野陽子は、後から事情を聞けばもっともな事情もあり、それが彼女パーソナリティの問題ではない傍証としては友人も非常に多いことが挙げられるのですが、明菜には誰とでもうまくつきあえる小泉今日子以外には友人と言うような人はいませんでした。

新田恵利歌番組明菜と一緒になった時、挨拶に行ったら無視されたのだけれど、別のパーティー会場であった時、やたらなれなれしく親しく接してきたのでその豹変ぶりが怖かったと言っています社会人一般の社交として明菜の態度が独自基準で動いている、少なくとも一般的ではないのは確かでしょう。

ただし彼女仕事上のことは別として誰かを攻撃したり、悪口を言ったりするようなことはしていません。仮に「性格に難がある」のだとしても、彼女が関心があるのは自分生き方に限られていて、他人にどうこう干渉することは一切ありません。明菜を見ていると、果たして性格がいい」とか「性格が悪い」とは一体何なのだろうと考えさせられます。他人のことにあれこれ指図するような真似もまた性格がいいに含まれてしまうのか。ひとつだけ言えるのは、明菜のことが嫌いなら嫌いで放っておけば、何の害ももたらさない人だと言うことです。誰かを攻撃するような真似はしないのですから

ザ・ベストテンプロデューサーはこの番組を心から愛して、リハーサルから熱意を以て付き合い、他の歌手が歌っている時も熱心に聴いていたアイドルとして、中森明菜南野陽子の二人の名を挙げています80年代アイドル黄金時代を心から愛していたふたりアイドル、私は単に視聴者として二人を見ていただけでしたが、確かにこの二人にはアイドルとしての「生真面目さ」が際立っていたように思います


中森家のルーツはどこにあるのでしょうか。今一つそこに触れた文章は無く、今のところ不明ですが、中森家のありようを見ていれば、社会からやや孤立している印象を受けます中森明菜東京都清瀬市出身ですが、土着の家系なのかどうか、それが気になります。と言うのは、田舎から出てきて、転職を繰り返したような人の場合地縁血縁会社縁が切れている人が多く、創価学会はそういう人たちを対象にして成長してきたのですが、宗教によるつながりもなければ、家族でこじんまりとまとまっているケースが多いからです。「亡命者家族風景」であり、コルシカ島と言う故郷を失ったボナパルト家排他的家族的結束を強めたように、中森家にはどこか亡命者マインドがあります

明菜には友人が出来ないのではなく、作らない、通り一遍の社交以上の価値を見出さないのは、家族という単位が直接世界と向き合っている、そういう世界観を持っているからです。明菜は適性に合った役ならば、天才的と言うほどの演技を見せる、そういう才能もあります1998年テレビドラマ「冷たい月」ではかつて自分の夫を結果的におとしめた専業主婦に友人のふりをして近づき、その主婦の家庭を乗っ取って崩壊させる女を演じていましたが、おそろしいほどのはまり役で、役と役者が同一視されてしま危険すら感じさせるものでした。その後、明菜役者からは遠ざかったので、結果的にその懸念は杞憂に終わりましたが。1992年に放送された「素顔のままで」では安田成美演じる女性親友になる女性を演じていましたが、最終的には安田成美演じる女性の子を、自分の家庭的幸福を捨てて引き取って育てるという結末でした。「素顔のままで」は友情を描いた作品ですが、友人を必要としない明菜には一見合わない役のようですが、「非常に親しい人は友人と言う中間的な領域ではなく家族に組み込まれる」という中間的な領域の欠如した明菜世界観に沿った役でした。

90年代の終わりにトーク番組に出場した時、明菜は許せない相手として「共演者にはそういう人はいないんですが、スタッフはいますね」と述べています松本伊代からどれほど冷たくあしらわれようとも、松本伊代の側がどれほど強く明菜意識していようとも、明菜には伊代は視界にも入っていないことが伺えます家族ではないからどうでもいい存在なのです。スタッフある意味家族の周縁部にある存在で、ここに対して仕事をしてゆくうえで中森明菜は無条件の理解を当然のこととして要求したのではないでしょうか。それが軋轢になったのでしょう。


中森明菜は「スター誕生」末期に出てきた人で、小泉今日子もほぼ同時期にその番組から輩出されています。両者とも圧倒的な高得点合格したので、複数の選択肢の中から所属事務所を選べる立場にありました。小泉今日子は最大手バーニングプロダクションを選びましたが、明菜は弱小事務所研音を選んでいます研音はいまでは大手大手、最有力の一画を占める芸能事務所ですが、当時はめぼしいタレントがいなくて明菜に社運をかけていました。明菜研音を選んだ理由は定かではありませんが、おそらく収入等の条件が他よりも良かった、それで親がそこを選んだのではないかと思います

アイドル収入ですが、驚くほど少ないのが実態です。南野陽子は、「ベストテンで1位をとっていた頃でも月収が3万円だった。あんまりだろうと直談判したらケタが二つ上がった(100万円台になった)」と述べていますし、堀ちえみは「自分もしばらくは3万円くらいで親から仕送りをしてもらっていた。スチュワーデス物語がヒットしてようやく月収30万円に上げて貰った」と述べています

明菜は早い段階で親兄弟に店舗を持たせるなどの経済的支援をしていますから経済的な条件が他のアイドルよりは恵まれていたのは確かでしょう。ただし弱小事務所に所属したハンデはあって、賞レースでは明菜は初年度はほぼ無視されていますデビューの年にはすでに「少女A」をリリースして、メガヒットもあり、82年組の中でもトップの実績を示していたのですが、その年のレコード大賞では優秀新人賞も得ていません。最優秀新人賞を獲得したのはシブがき隊で、優秀新人賞を得たのは、松本伊代堀ちえみ石川秀美早見優でした。今から見れば冗談みたいな結果でしたが、このことは相当な物議をかもし、いくら賞が事務所の力関係が反映されると言っても、中森明菜無視しているようなら上辺だけの公平さすらないではないかと言って、作詞家阿久悠審査員を辞任しています


明菜は不良少女路線で売り出されたと思っている人は多いのですが、実際にはそうでもありません。明菜本質は「非」であって「反」ではないからです。独立しているということは何か支配的なコミュニティアンチであることを意味しません。アンチコミュニティにおいても明菜は非であることによって孤立するでしょうから明菜聖子を芸能として愛でていますが、ただ彼女とは同じことは出来ないのでした。

デビュー作「スローモーション」は来生姉弟の作詞作曲ですが、この「非」の部分を上手く捉えています明菜には主張はないのです。しかし主張がないというのは非常に分かりにくいので、「少女A」では流通やすい不良少女の側に寄り添った装飾がほどこされています

このことは、明菜には楽曲世界観彼女キャラクターにはあまり関係が無いことを示しています。もちろん聖子的な世界観を歌えば、無理があるのですが、それは聖子楽曲世界観ニュートラルではなく、それなりの主張をはらんでいるからです(何を「可愛い」とするかはそれ自体が価値判断の表明です)。

聖子の曲、に対して明菜の歌、とも言えます。これは聖子に「歌う」能力がなく、明菜楽曲楽曲としての質が担保されていないということを意味しませんが、極端に言えばそういうことになります聖子彼女歌唱力で以て楽曲表現するのです。明菜楽曲世界観に拘泥せずに自身の歌唱自体を表現するのです。ですから明菜楽曲はむしろ世界観は薄い方がいい、ステレオタイプな理解され易さがあればそれでいい、ということになります。極論をすれば架空言語で歌った方がむしろいい、ということです。明菜には異国風楽曲が多いのですが、実際、意味が分からない歌詞がしばしばサビで出てきています

明菜歌唱本質は強弱にあります。そのコントラストが激しすぎて、音割れを防ぐために強の部分に合わせると弱の部分では何を言っているかさっぱり聞こえないということもしばしば発生しています。強弱はむろん、歌詞の流れに沿っていた方がいいわけで、おおむねそういう構成の作詞になっています。逆にそれをやり過ぎると、「聞こえない」が発生してしまうわけです(「難破船」がその例です)。「DESIRE」が明菜にとって代表曲であり、一番資質にあっているのは、尖った表現が全編にちりばめられていて、弱の強調をやり過ぎていないからです。彼女の力強いロングトーンが、弱が強調されていないために強の中の強として印象付けられる構造になっています

スローモーション」でも声は幼いのですが、「やはりあなたと一緒にいたい 一言 書きあぐね」の部分で、既に彼女歌唱本質を見せています。(失礼しました。これは「トワイライト」の一節でした)

中森明菜楽曲には歌唱を見せる工夫は必要なのですが、それはプロ作詞家作曲家ならば心得ていることです。統一的な世界観のようなもの必要が無い、むしろあってはならないのですから松田聖子プロジェクト匹敵するようなサポート体制を明菜必要しませんでした。

様々な作家彼女楽曲提供していますが、聖子における財津和夫細野晴臣松本隆大瀧詠一佐野元春松任谷由実のような「企画者」はいませんでした(それにしてもちょっとあり得ないような豪華な面子です)。

ある評論家は、松田聖子プロデュースにおいては基本的に松本隆がひとりで担当した、だからいろんな面を出そうとして聖子楽曲には多様性がある、しか中森明菜は複数の人がそれぞれ別個に担当したため、マスイメージ中森明菜に沿った同系統楽曲ばかりになった、と述べています。私も基本的にはそういうことなんだろうなと思います


成功者家族で平常心を維持できない人は結構ます。大きなマネーが動くだけに、親と子は別人格、別世帯、別会計ということが分かっていない、仮に頭で分かっていても「これくらいしてくれてもいいのに」となってしまう人は多数いますアイドル歌手に限った話ではありません。子供への影響力が自分経済力イコールになるのですから子供結婚独立を嫌う人もいます名前は出しませんが、そういう例はたくさんありますよね。浪費型には娘に対する母親が陥ることが多く、管理型には父親が陥ることが多いようです。男性芸能人場合は、結婚は「嫁を取る」という形にまだまだなりやすいので、結婚を機に別世帯であることをはっきりさせるのもやりやすいのですが、女性芸能人場合は、私のものである娘、うちの財産である娘を結果的に婚家と争って取り合う形になりやすく、娘は夫をとるか実家をとるかの選択を迫られることになります

http://anond.hatelabo.jp/20130827181234

(続き)

2007-10-03

偶像

本来アイドルって偶像性が売り物だったはずだ。う○こもお○らもしない。そう思わせて何ぼのはず。ところが、最近アイドルと来たらぽこぽこ妊娠しやがる。それもどこの馬の骨とも知れないような男の子種で。

これで偶像性云々を見ろというのが無理。アイドルじゃなく、小娘。しかも近所の小娘より素行が悪い。はてなのトップを見ると、ハロプロの一押しアイドルたち、それも15歳にも満たないような子の写真が踊っている。「ああ、この子達も3年もしたら出産だ」と身も蓋もないことを考えるのは、きっと俺が悪いのではなく彼女達の先達の行いに負うところ大だ。アイドル偶像性をじわじわと奪っていったのは週刊誌の暴露記事だが、一方で「等身大」とよばれる小娘達が大量に出回ったために、アイドル自身が偶像性を捨てることになった。悪貨は良貨を駆逐する。

偶像性からすると、アイドル全盛期は多分80年代前半だろう。早見優とか、河合奈保子とか、石川秀美とか中森明菜とか、小泉今日子とか、松田聖子とか、そりゃもう華やかだった。

中森明菜に関しては、10年位前に同じ職場に居た女の子が「自殺未遂ってだけで、偶像性が0になった」と厳しいことを言っていた。が、う○こもお○らもしないはずの彼女が、恋に命を絶とうとした、その一点だけでも、今となっては神話的ですらある。

2007-07-01

批評にかぎらねえ

http://anond.hatelabo.jp/20070408073302

これ読んでてちょっと違うことを考えた。別にこの手の世代論は批評の文脈に限らず、かなりコミュニケーションにおいて、汎用的なものだと思う。

思春期にハマってたものが、その人の芯というか、核となって、一生存在し続ける。これが、人間の特性なんじゃないかと考えている。だから、流行ってるものが毎年違う以上、世代によってハマるものが変わるのは、いわば当たり前。でもそれはすごいすごいすごい大事なこと。

僕がコミュニケーションで気にしてることとして、「相手の人間を理解するには、相手が思春期??青年期にどんなものにハマってたかを把握するのが一番大事」ってのがある。それを実現するために、人の年齢から"思春期にハマってたもの"のあたりをつけようと、ここ50年ぐらいの出来事と、ブームになった出来事をひたすらインプットしている。

彼は、バブル世代なのか?ファミコン世代なのか?フォークソング世代なのか?当時のカリスマは誰?好きなアイドルは誰?流行語は?ぐらいを、人と会った瞬間に考える。慣れれば、商談の場で、先方に現れた40過ぎの初対面のおじさんと、石川秀美石川ひとみの違いについて熱く語ったりとか、すぐできるようになる。

そのとき大切なのは、ちゃんと知ってても、"わざと間違えること"。「あれですよね、石川秀美って、『まちぶせ』歌ってた人ですよね」「はっはっは、違うよ君ぃー、それは石川ひとみだよ??。私は当時彼女のファンでね??」ときたら、内心キター!というわけ。世代別に、相手が語りたいネタパターンを用意してやればいい。

そのネタパターンの1つが、映画とかアニメとか美少女ゲームという、位置づけなんだろうね。

誰もね、自分の好きなもの、子どものころにハマったものを、大切にしたいし、語りたいし、悪く言われたら嫌なものなのよ。

だから、そんなに悪く言うかわりに、うまーく引き出してあげると、みんな喜ぶと思うよ。

 
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