子供が「シャベルを欲しい」という。子供が本当にシャベルを欲しい場合と、母親の関心を引くためにわがままを言っている場合と二つある。本当にシャベルを欲しい場合には与えることが望ましいのは勿論である。
上記の文に続いて、要は「わがまま」は『甘えたいという欲求』であり、それがかなえられないとダメになるのであって、わがままをきいた(それはわがままをきいただけで『甘えたいという欲求』は満たされていないと加藤氏は定義する)からといって人がスポイルされるということはないのだ、と加藤氏は語る。
上記の話には論理的に言って二点問題があると思う。
一つめ「本当にシャベルを欲しい場合には与えることが望ましいのは勿論である。」とあるが、「本当にシャベルが欲しい」と思っていても与えることが望ましいとは限らない場合もある。それが子どもにとって必要かどうか親は見極める必要があるのであって、心から欲しいと思っていてもかなわない場合があることを教えなくてはいけない場合もあるだろう。関心をひくためのわがままでなく、本当に、心の底から欲しがっていても、分不相応であるとか明らかに子どもにそれを持たせることが望ましくないという場合はある。たとえば子どもが貴金属の装飾品を欲しがった場合、あるいはむちゃくちゃ趣味の悪いエロ本を欲しがった場合とか。甘やかされて承認欲求が満たされたのは良いとして、その場合その子は社会常識という大変に重要なものを学ぶ機会を失う。結果、「甘やかしたせいで」親が子どもをスポイルするのはそれほど難しいことではない。
二つめ。世の中にはそれでも上の加藤氏のようなポリシーで「際限なく甘やかす(特に物質的に)こと=愛情」と考える人がいて、そしてそういう欲求は大抵の場合裕福な親でない限り永遠に満たし続けることはできないため、結果としてずっと対人関係に不満を抱えたまま成長してしまう方々が一定数おられる。そういう方々は他者が自分の言うことをハイハイ聞いてくれる場合だけ相手からの言葉を好意的に受け取るが、一端相手が自分の言うことに異をとなえると、それが心からの忠言であろうが叱咤激励の類であろうが、全て否定的にしか受け取れないようになってしまう。大体において時代劇に出てくる若殿というのはそういう性格であるが、あれはその意味で、世間に実在する性格の一類型だと言える。その人が永遠に「若殿」や「ボンボン」、「お姫様」や「お金持ちのお嬢様」といったごくごく恵まれた境遇に有り続けるなら問題は無いかもしれないが、一端その立場を離れるととたんに彼らは社会に適応できないことがあらわになってくる。これもまた「甘やかしたせいで」親が子どもをスポイルするケースである。
最初のエントリは「厳しく躾けるのは子どものためなのよ」というむやみな思い込みで子どもを虐待するような親に向けた読み物として重要な指摘を含むエントリなのだが、どちらかといえばその後に続けた二つの類型に日々色々と悩まされる身としては、ちょっとだけ異をとなえてみたくなった次第。まあ、タイトルだけの問題なんですけどね。