年末年始の激務の手助けに今年も来てくれた母が、わざわざCD再生機まで買ってきてとあるCDを聞かせようとした。
斉藤ひとりという人の講演CD。母曰く、きっと心に残るものがあるらしい。
仕事で疲れていた体を起こして、「あのさ…こういうのさ、本当にいいから」と言って停止ボタンを押すと、数年ぶりに見る激怒。
確かにこのブランドの薬で体良くなったし、薬飲むのは構わないけど、こういう考え方を変えるみたいなのはさすがに抵抗あるし受け入れられないよ。と言ったら、どうして聞くだけでもしないのか、それすら受け入れられないのかと嘆く。
なんでこの件にだけいつもそんなこだわるの、おかしいでしょ。と言っても、聞けばきっと楽になるから聞いてもらいたいのだと嘆く。
いろいろひっくるめてはたから見るとまるで宗教にしか見えないでしょ、それが抵抗あるんだよと言っても、小馬鹿にしている、親の気持ちがわからないと嘆く。
たしかに私はいま宗教で飯を食っているが、これは当初から純粋に生活の為だ。
仕事として宗教にかかわれる程度には考え方が柔軟なつもりだけど、別に宗教が好きなわけではないし、宗教みたいなシステムに親和性が高いわけでもない。
思想教育や洗脳やマインドコントロールみたいなのは伊勢でもうんざりするほど受けたし、ほとほと嫌気が差している。
私に必要なのは正しさではないし、幸せになるための考え方でもない。
必要なのはただただ、生活の手段であり、ごく現実的な人生を継続するための方策であり、結局は金だ。
苦痛以外の何物でもないものを“修行”や“訓練”とムリヤリ変換して、苦痛を幸せに感じて生きてゆくようなマゾヒズムには怖気しか感じない。それは価値観の変化というレベルに収まるものではなく、むしろ発狂と表現する方がふさわしい。
でも周囲の人はそう思わないらしい。
周囲の人間と価値観が著しく異なるという事は、要するに結局、私だけ狂っているのと何もかわらない。
人にも誇れるようないい母なのに、どうしてこの件に関してだけはこだわるのかな。
仕事から帰って疲れて横になっている人が、お金持ちの講演CDを聞いて幸せな気分になれるとか、本気で思ってるのかな。
ひとしきり嘆いた後で無言になってしまった。気まずいがもうどうしようもない。
これから何日もの激務が待っているというのに、気が重い。
でも持ち前の柔軟さでやってゆくしかない。
若いおなごの文体じゃ。ぺろぺろ 男じゃったら漢語を使うんじゃ ぺろぺろ
でたな!妖怪め! そう思って女の文体で書いておいたのさ。 俺の脇汗の味はどうだ
ギャー 塩は苦手じゃ♪ しかし余裕があるうちは安心じゃの さらばじゃ ペロペロ
最澄の弟子も弘法大師の弟子も同じことを言ってるよ 煩悩捨てて解脱するのは大変だけど頑張れ