2010-12-01

「女」性を受け入れることの違和感にまつわる根源的経験考察

なるほど。アネゴ女/自称サバサバ女の話にみられるように、

わたしは女として見られることにどこか違和感を感じて生きてきた。

これが、いまのわたしのこのねじれた性格に反映しているのだ。スイーツ的な女子やリア十的なものを一切否定したいという、このネガティブ的な思考論理に。

最初自分が女であることを拒否しているというこの仮説を否定したくてしょうがなかったのだがしかし落ち着いてよく考えてみると、わたしはずっと、女として見られることに対して違和感を感じ、居心地の悪さをかんじてきた。これまでずっとだ。だから、恋愛が出来ない。恋愛をする自分の格好悪さが身にしみてわかるからだ。

そう思うようになった根源的な体験は何かというと、幼少期、親戚たちに服や髪形をほめてもらったときはその都度毎回父親に、「うそだあ~」とか「お前の頭はこんなに大きいのにな」とかからかわれていたことだと思う。

父親は謙遜しがちなシャイな人物なので、身内の私が褒められた時にはどうしても謙遜しなければという、少し広すぎる「私的範囲」の考え方があったのだろう。

昔、自分はよく母親伊勢丹で買ってきたよそ行き用のお洒落着を纏わされていた。赤いスカートとか、リボンのついたジャケットとかね。こういう恰好をすると、人々は決まって、猫に小判的なその子供しい愛らしさを褒めてくれるけれども、そのたびに父親は茶々を入れてきた。そのことによって、わたしは無意識のうちに居づらさを感じていた。お洒落をさせられている自分に。そしてそのお洒落に少し満足していた自分に。

決して自分はその親戚の甘い言葉に見合うような美貌を持ち合わせているわけでは決してなく、またそう言われることでダメ自分の姿をさらに露呈させられているようでいたたまれなくなるのだ。だから女の子であることを捨て去ろうとし、それを引きづりながら女であることを拒否してきた。

「美女」と「美女じゃないワタシ」の間にはおおきな断絶があり、それは元来持ち合わせている「素材」の問題であり、そのことに早くから気が付いてしまった女子たちは、自分の閉じられた可能性に絶望し、自分を着飾ることを辞め、自分は対してかわいくないのにお姫様ぶる女の子たちを卑下するようになるのだ。

これはなんという倒錯した感情だろうか。

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