業務終了まで、まだ少しばかり時間が残る午後3時半。眠気の霧が晴れ上がり、また仕事に集中し始める頃合い。
契約職員という立場上、部署で一番下っ端の私には、毎日茶具の後片付けがある。
あわ立ちの悪い洗剤をスポンジにたっぷりと垂らす。カップの底に僅かに残るコーヒーを、蛇口から出るぬるま湯で薄める。
流し台の中で泡塗れになる様々な形のカップと、コドモのような私の手。
家でも職場でも毎日手洗いで食器を洗っているから、油分が失われてかさかさに乾いて、そこだけは大人のように見える。
手馴れたコトは手慣れた身体に任せて、頭で別のことを考えていればいい。
そうすれば、時間は案外早く過ぎ去っていく。
私には好きな人がいる。とても素敵な人のように私の目には映る。
人当たりがよく、部署内での人間関係は良好のようだから、多分他の人からも好かれている人だろうと思う。
妙に緊張をすることもなく(好意を自覚してすぐの頃は流石に心臓がいつもより大きく動いていたけど)、自然に会話を交わせる。
好きかもしれない。何となく、何となく、好きかもしれない。
いや違う。
とても好きなんだ。すごく好きなんだ。
この人とお付き合いが出来れば蕩ける様な幸福に包まれるんじゃないかと錯覚するくらいに。
そんなにまで好きならば、告白すればいいじゃん、と思われると思う。自分でだってそう思う。
だけど、4月に入社しこの部署に配属されて、もうすぐ1年、告白などという甘くも苦くもなる言葉は遥か遠くにある。
自分のありのままの感情を打ち明けるのが怖い。正確には、打ち明けた後に拒絶されるのが酷く恐ろしいのだ。
何を子どものようなことを、とは自分自身でも思うが、しかし今まで誰にも告白したことはないし、告白されたこともない。
生まれてきてから今に至るまで、誰かの恋人であった期間は一瞬たりともない。
世の中の恋する女性の行動力には感服するばかりで、自らの気持ちをオブラートに包むことなくそのまま手渡せる行動力が羨ましい。
毎年如月は14日、甘い陰謀の日の有無を言わさぬ流れに乗って、私も思いを打ち明けてみようかと、少し高めのチョコレートを買ってはみたけど、
結局渡せずに私と家族の胃袋の中に消えた。私の気持ちはどこかに行くことはなく、私の中に再び溶け込んでこの日は終わった。
詰まるところ、私はただの臆病者だ。成人して数年経つのに自分の言いたいことが言えない。もどかしい。
私は私の好きな人のことの、どこまで知っているのか分からない。
側面、あるいは切り取られた一部分だけを見て、好きだ好きだと思っているだけなのかもしれない。
とても滑稽なことのようだけど、実際に一部分しか見えていないのだから、仕方ない。
私の更に滑稽なところは、その一部分を妄想の水で膨らませて楽しんでいるところだ。
いつもご苦労様ねとか、片付けしてもらって悪いな、とか色んな人から詫びるような言葉を時々頂く。
詫びられることなど何もない。スポンジから生まれる泡と、捻った蛇口から止め処なく流れるぬるま湯。
そして沢山のカップと戯れながら、あの人の付き合うことが出来たら、と考える時間はとても楽しい。
あの腕に自分の腕を絡ませ、引っ付きながら歩くことが出来たら素敵だろうな、とか、
一緒にご飯をお腹いっぱい食べれたらそれだけで幸せかもな、とか、そういうくだらない妄想を延々と考える時間はひたすらに楽しいのだ。
そこにいる好きな人は、私の想像上の産物であって本物ではない。だからこそ楽しく感じるのかもしれない。
多分付き合うことのない人が、私に優しくしてくれる妄想。都合がいいにも程がある。こういうことも自慰と言えるのだろうか。
好きな人とも、あとひと月もすればお別れ。この妄想ともそれくらいでお別れが出来ればいい。
穏やかな春の日差しの中で融けて消える残雪のように、このどうしようもない恋心もなくなってしまえばいい。
だけど最後の日に何かないかと期待するこの心はへたっている。少女漫画の読みすぎだ。
奇跡みたいに都合のいい出来事など起きるわけもなく、そして何もなくこの恋は終わる予定だ。
それでいいのだ、たぶんね。
詩的な文章で情景は素敵だけど、だからか余計に酔っている気がする。 >だけど最後の日に何かないかと期待するこの心はへたっている。少女漫画の読みすぎだ。 >奇跡みたいに都合...