ともだちがこころの病気になって一年、怖くて連絡をとれなくなってから半年が過ぎた。
職場を休んで実家に帰ったともだちは、風の噂ではとても怒っているようだ。
話を聞いてほしくて、苛立ってキレたり怒鳴ったりするのも病気のせいなのに、
こんなに苦しくてしかたがないのに、話を聞いてほしいのに、フォローも何もない、と。
ともだちは、まわりで支えようとしていた友人たちのなかでも、
特に、自分に対して怒っているらしい。
いちど、友人の一人が電話をしたとき、
ともだちは「あんなに待っていたのに誰からも連絡がなかった」と怒鳴った。
生まれてこのかた、誰かからあれほど激烈になじられたり怒鳴られたりしたことはなかったよ、
それはそれはすごかったんだ、と怒鳴られた友人は淋しそうに教えてくれた。
実際には、その前後に複数の友達がメールや電話をしていたのだけれど、
ともだちにとって、それは『連絡』ではなかったらしい。
みんなの話を合わせてみると、ともだちは、自分の連絡を待っていたようだ。
ともだちは、上に書いたように友人を罵倒した後で
「これは貴方に向けたものではない、代理みたいなものなのだ」と謝ったというのだ。
半年経って、初めて知ったこと。
働くだけでずっと来てしまったともだちは、社外の友達がいなかった。
労組を務めたりする機会があっても、会社の中で知り合いの輪を広げることに興味を示さなかったらしい。
何かを相談する相手は、同僚と上司、あとは学生時代の友人=自分たちだけ。
そのなかでも、自分に対しては、深く深く、気持ちを傾けていたらしい。
たしかに、知り合ったのがいちばん早かったぶん、つきあいも長かった。
「同性を超えた気持ちというか、恋人に対するようにして、ものすごく執着してたみたいだよ」
と友達の一人は言った。
だから、それが完全に裏返った今は
「裏切られた」「こんなに傷つけられたのだから謝ってほしい」という
真っ黒い憎悪の対象になってるみたいなんだよ、と。
自分も、ともだちのことを親友だと思っていたけれどそこまで執着されているとは思わなかったから、驚いた。
本人とは今は接触していないので、他の人経由の話でしか今の状態は把握していないけれど、
ともだちは、どれほどこちらが間違っているか罵倒して、謝らせたがっているという。
時間を自分に捧げてほしい。批判や指導ではなく、すべてを受け入れてほしい。
たしかに今考えると、当時のともだちの要求は、恋人に対するそれとよく似ている。
でも、実際にはそうではないし、こちらにはこちらの家族や仕事がある。
突きつけられた要求を容れることはできなかった。
「それはできないから」と、あのときはっきりと断ればよかったのだろう。
でも、断った結果、もっとこころの病気が悪くなってしまったらどうしよう、とあのときは思ったのだ。
そして逃げているうちに、事態はもっと悪くなってしまった。
電話口で死ぬほど罵倒された友人は、もう昔の「ともだち」はいないんだと思うようにしているんだと言った。
この先、病気が治ることがあっても、もう顔を合わせて話すことはできないと。
自分の代理として深く傷つけられてしまった友人には、本当に合わせる顔がない。
ともだちが「友達に裏切られた/ひどい」と書くと、
「なんてひどい!」「管理人さんかわいそうに」という同情的なコメントがびっしりとつくのだそうだ。
その様子は教祖と信者のようだと、日記を覗いている友達が言っていた。
「あれだけ同情されたら、心地よくってしかたがないから、そりゃあ抜け出せないよね」とも。
ともだちがどんなに酷く自分のことを書いていても、もうしかたがない。
日記を読むひとたちは、ともだちが書く部分しか見えないし、同情するしかないだろう。
そう思い続けているに違いないともだちの「現実」は、われわれの現実からは遠く隔たってしまっている。
胸にたぎる恨みつらみ、罵倒をこちらにぶちまけたら、ともだちはよくなるのだろうか?
罵倒を浴びせてなお、みんなと友人でいられると思っているのだろうか。
ともだちの言動に傷つけられたのは、自分も皆も同じだ。
けれど、だからといって、激情の刃を思いのままに振り回す相手の前に
素で立ち続けていられるほど皆強くはない。
はたして、治るのだろうか。
穏やかに話せる日は来るのだろうか。
考えてもしかたがないことを、今日もそうやって考えている。
あなたがともだちにした事が「連絡をしていない」だけだったら、 もう放っておくしかないよ。
ともだちが「友達に裏切られた/ひどい」と書くと、 「なんてひどい!」「管理人さんかわいそうに」という同情的なコメントがびっしりとつくのだそうだ。 その様子は教祖と信者...
こういうのはお互い様な部分もあるだろ 自分の事情が大事なのは誰しも同じだ