ただし、バリバリな活動家にもいろいろな考え方や見方があるので、鵜呑みにはしないで欲しい。
最後は誰の助けも得られず孤独に陥るというのが常である。わたしは精神的に強い方なのでまだいいが、弱い人は創価学会に入ってしまうのかもしれない。
入るときは弱いという人もいるかも知れん。
しかし、精神的に弱い人間は、学会に居続けることができても、活動家にはなれないし幹部になれてもやっていけなくなる。
全ての活動家や幹部は、「一人立つ」ことを求められる。
そうなっていなければ、いざという時に何もできなくなってしまうからだ。
ねーよ。
知らない人には上納なんだろうが、創価学会の財務は限定された会員しかできない。
ただ、親が自分の子どもの分として、名義だけ広布部員にすることがある。
だからといって、やりたくないものに直接出させるようなことはしない。
心得違いの幹部が絶対にいないとはいえんが。
広布部員になれば、財務として年間1口1万円以上の義務が生じることにはなる。
しかし、事情が変わってできなくなれば、無理にする必要はない。
自分はいつも1口だけどな。
1度3万円やったことがあって、「今年はいつもの3倍やりました!」とか会合で発表したりもしたけどなw
財務とは別に、随時受け付けている広布基金というのもある。
これは、自分が出したい金額でできる。
本部へ行ったら、2千円くらいは出すようにしている。
それくらいは財布に余裕があるようにしていたいという思いがあるので。
精神的に弱い人は社会でも成功していない人が多いだろうから所得も低いのではないだろうか。学会員にとって10%の上納はそれなりに大きな支出であると推測される。しかし10%から得られる精神的安定に価値を見出しているのだろうから学会員を続けるのだろう。創価学会とはそんなにいいものなのだろうか?
バリバリの活動家は、多かれ少なかれ、信仰によって何らかの困難を克服した体験を有している。
だから強い。
どれだけ精緻な理論を構築したとしても、実際の現象を覆すことはできない。
だいたい、財務や広布基金にしても、報恩感謝の思いや広宣流布の使命感からでなければ、ただの寄付であり金額は数字でしかない。
それで精神的安定が得られたとしても、単なる自己満足以上のなにものでもない。
学会活動するのだって、自分の時間を捧げているということになる。
「時は金なり」というのであれば、自分の時間を供養しているわけだ。
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