家族や親戚もしくは親友など、自分と近しい人との間でも死生観について話す機会というのはあまりなかった。
近しい人というのは国籍・宗教・環境などが同じ(要するに「典型的」日本人)であったので、死生観についてもほぼ同じだろうと身勝手に考えていたのである。
しかし、それは全くの誤りだった!死生観にズレがある。
考えてみれば、人によって世界観が異なるのと同様に死生観が異なるのも当たり前のことなのだろう。
自分自身がそうであったように、近しい人が互いに同じ死生観を持っていると無条件に期待している人は結構多いらしい。
ズレがあるだけなら問題はない。やっかいなのは近しい人であった死者について語る時である。
おのおの自らの死生観を下敷きに死者を語る時、そこにズレから生じる不穏な空気が漂うことがあった。
それは、喧嘩一歩手前とでもいえる雰囲気であった。なぜそんなことになるのか。
死者についての「語り」とは、死者というメディアによって自分語りをすることに他ならない。
死者というのはまさに無私の人間を体現するものであり、鏡あるいは白いスクリーンのような存在だからである。
そして死者というメディアに投影した自分語りとはその実、語り手の死生観についての「語り」である。と、そのように感じた。
おのおのがズレた死生観について自分語りをしたところで「語り」はかみ合わずにズレてくる。
「語り」のズレの原因は死生観のズレにあるはずなのだが、前述の通り死生観が同じであること期待している人は多い。
そのためやがて「語り」のズレの原因は、不思議な論理によってもう一方の語り手に向けられる。
「こいつは死者のことを何も理解していない!」「こいつには自分の悲しみなど理解できようはずもない!」「こいつの発言は不謹慎である!」
近しい人同士であればこそ、その場で面と向かって議論などできようはずもなくこっそりと険悪な雰囲気になる。不穏な空気は長きにわたり続いていく。
この論が正しいかどうかに根拠はないが、少なくとも死生観にズレがあるらしいことに対しては気を払った方がよいと思っている。
できることなら死生観について話し合う機会を持つべきであろう。
死者のことで喧嘩するのはよくない。
この想いにズレはないのでは。