http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2009/03/17/entry_27021160/
自分の言葉って何だ? 今俺が使ってる日本語に、俺が開発した単語や文法は一つもない。自分の言葉とは、他人の言葉の中のどの言葉をどんな順番で使うか、ということだ。
村上春樹はネット上の「正論原理主義」を怖いと言う。本来こうあるべき、そう思わない奴は間違ってる、という論調のことか。そして自分の等身大の言葉で語ろうとする奴の立場が弱くなることを憂う。
自分の言葉で語るのは本当に難しい。それが「自分語で話す」みたいなことではなく、「他人語で自分を話す」ことである以上、相当の労力が必要になる。ましてや「自分」が「他人」に違和感を持っている時など、最悪だ。しっくりこない言葉を、どうにか選択し、並べ直したりして、何とか「自分」を表現しようとする。
楽なのは「自分」を無視している時だ。麻生=バカ、政治=不信、などと悩まずに生体反応するのはとても楽だ。周囲の人も同じ反応をしていたら、即席コミュニティのできあがりだ。私も、私も、俺も、僕も、と来て、え?あなたそうじゃないの?へえ、でそっぽを向き、コミュニティが閉じていく。「正論原理主義」はその延長線上にある気がする。楽さ、お手軽さ、気持ちよさで繋がっているコミュニティだ。「自分の言葉で誠実に」微妙な違和を唱える人々に配慮する必要がどこにあろう。
苦労して自分の言葉で語ろうとする人々には、しかし、パワーがない。誠実さに孤独はつき物だ。いつの時代でもパワーを持つのは誠実さより気持ちよさ、逡巡より熱狂だ。花より団子とも言える。そしてそれは、至極当然のことだ。
村上春樹は2つの警鐘を鳴らす。思い込みの気持ちよさで繋がってゆくコミュニティに幸福な未来はない。一方で、誠実でも繋がれなければパワーがない。
快楽のための同感の輪、のようなものでなく、等身大の自分を表現しようとする人たちの輪としてネットのコミュニティに期待をした佐々木氏は決して絶望してはいない。ネット上のコミュニケーションはリアルに輪をかけて扇動的で、快楽主義的だ。しかし一方で特に英語を使った言論の地球規模の汎用性には目を見張るものがある。いつの日か、ネット・コミュニティ発信のパワーで戦争を未然に防げるようになるかも知れない。なに反戦とか言ってんの、基地外は殺すべきだろ、などという魅力的なまでに簡潔で、その実は自閉的、快楽的な言論にはおそらく無限大のパワーがある。しかし今の私にはどうしても、そのパワーを超えようともがく村上春樹の方がかっこよく見える。