近年理科離れという現象が進んでいる。その原因というのは、恐らく、複雑になった科学に対して、自分がそれを理解でき、その発展にかかわることができる、という感覚が得られづらいからであろう。
物理、数学はある程度論理的な思考を積んだ者ならば、だれでも同じ理解ができる学問の体系である。古くはニュートンの時代から、彼が書き残したプリンキピアも理解不能な言語というわけでもなく、理系の共通言語である数式を通じて読み解くことができた。しかし、未来では違うであろう。学問として物理を教えるのにしても、学生はどうしてそうなるのかを考えようとしない。教員は自分がどうやってそれを会得したのかを伝えることができない。もはや定量的な議論は全く意味をなさなくなり、授業は今ある事実の積み重ね、いわば、クイズ番組でもやっているような状態になった。
しかし一方で、近未来社会では、技術を保持・発展させていく者はどうしても必要になってくる。物理、化学、数学はもはや学問として学ぶものではなく、感覚として身につけるもの、「修行」を通じて身につけさせるものとなった。多くの修行者がこれに憧れ習得しようとしたが、万人に身につけられる感覚ではなく、ほとんどはゴミのように捨てられていった。技術を習得したわずかな者は当然尊ばれることになり、社会の中でヒエラルキが形成された。
科学と非科学の違いも曖昧になり、どちらであってもさして問題ではなくなった。持たざる一般人は、技術者を神秘的な存在と捉えるようになり、いつしか、物理・化学・数学といった学問の体系は、「魔法」と呼ばれるようになった。