【まとめ】
ノーベル物理学賞受賞者の国籍が問題となっているが、「受賞者」がどの国の人か、という点ではなく、その「知的な成果」がどの国のものとしてカウントされるかという点から見ると、文学賞の場合がとりわけ問題となるのではないか?
【本文】
先日発表されたノーベル物理学賞受賞者のうちに何人が日本人か?ということが問題となっている。南部陽一郎博士のことです。
ニュース記事ではこういうところが;
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20081007-OYT1T00543.htm
http://www.asahi.com/science/update/1008/TKY200810080230.html
http://www.j-cast.com/2008/10/08028248.html
ブログでは、たとえば、こんな記事がある。
http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20081007/1223385373
新聞等が「日本人3人」などと報道するからヤヤコシイことになるのだし、実際、読売新聞の記事では「米国籍で日本人」と書いてあったりする。
とりあえずそれらのいいたいところを忖度すると、日本で教育を受けて物理学者となった人であるのだから「日本人」なのだと判断することもあながち強弁ではない、というところだろう。
もちろん、そうなのだから問題ない、と私は考えているわけではない。報道等がどれくらい考えた上で「日本人」のカウントをしているかということに疑問がないというわけではない。
この点では、上に引用したブログの記事は、新聞等の報道姿勢に見られる、回復された自尊心や誇らしさの裏側にある他者への無思慮をやんわりと指摘していておもしろいと思った。とくに新聞報道での「日本人」基準が、やや「出生」という点に強調をおいているところは記事から読み取れる気分の高揚と結びついているのではないかなどとブログ記事を読んでさらに考えをめぐらした。
しかしながら、このような見方もふまえた上でなお、「日本人が受賞」という見方には理由があるのではないか。ノーベル賞がある学術の成果(具体的には研究論文)に与えられるという点を考えると、次のような考え方もできるのではないか。
つまり、今回の受賞理由となった業績は南部博士が日本国籍を有していたときのものである、ということをどのように考えるか、ということだ(ただし、論文発表当時、1960年はすでにシカゴ大学に在籍していた。なお米国籍取得は1970年のようである。南部博士は1921年生)。
ここからが言いたいことなのだが、このように書いてみて、わたしが気になるのは、今回の「日本人○人」という数え上げの問題ではなくて、さらに進んだところにある問題だ。
受賞者の国籍問題を、「研究の成果たる作品の帰属先」(ただし知的財産権の話じゃないよ)だと考えると、この問題は、ノーベル文学賞においてよりシリアスではないだろうか。
たとえばこういうことだ。日本国籍の人が、米国に在住し、英語で小説を発表する。この人に与えられるノーベル賞はどの国の人が受賞したと考えるのか?(いま「英語で小説」を例にしたが、英語の場合、事実上「普遍語」たる役割を果たしているので、もう一つ難しい問題が生ずるのだが、これには立ち入らない)
別の言語でも同じ問題が生ずる。日本でも、韓国籍の人がそのルーツを日本語で小説とする。中国出身の人が日本語で中国社会を舞台とした小説を発表する(近時の芥川賞!)。日本の例だと議論が別の磁場に引き寄せられるのだが、問題の本質は普遍的だ。アフリカ出身の人がフランス語で小説を書く。アメリカ人が日本語で小説を発表する・・・等々。
ここまで考えをめぐらして書いてみても取り立てて結論めいたものはないのだが、今回の報道やそれをめぐるいくつかの議論を見ていて「○○人というアイデンティティの根拠に何を置くのか」ということを、考えた。
【ブクマ読んでの追記】
・図式化すると、本文では、国籍あるいはアイデンティティについて、「出生」に対して「言語」という軸で考えるという方向もありうるだろうと考え、特にそれが問題となるのは、文学賞のようなものだろう、ということを述べました。
・Mukkeさんのコメントを読んでさらに考えたところ(また、http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20081008/1223473549も読みました)、結局このエントリーを書いたときは、学術的な成果という「普遍的」なものに対して、それを報道する側が(日本のメディアなので当然のこととは思いますが)、国籍という「ローカルな」語法をもちだそうとするところに若干の違和感を感じていたのかなと思いました。
まずは落ち着いてbタグを閉じろ。 話はそれからだ。