中国(や韓国)に国として公的に謝罪するのは次で最後にすると宣言してはいかがか。
というのも、今、日本が謝罪することは両国にとって有害無益にしかならないからである。
あちらの人間は言葉を重ねない。一度の言葉にかなり強い意味を込める。
日本人のように感謝の言葉や謝罪の言葉を何度も重ねたりはしない。
言葉に重みがあるために、何度も繰り返して言うことは逆に言葉の重みを失わせてしまう。
だから、向こうでは、お礼の言葉も謝罪の言葉も繰り返し言わない。
一度感謝や謝罪を伝えた後は、言葉よりも態度で示さなければならない。
言葉の回を重ねるほど言葉が安っぽく、誠意がないように感じられてしまうのだ。
向こうの人らに会ったことある人なら何となく分かるだろうが、彼らは語調が強い。というより語調がきつい。
彼らにとってみればそれがデフォルトなのである。
だから、何度も重ねて言うと、弱い語調で言ってるのではないか、本心ではないのではないかと勘ぐられる
ここは感謝や謝罪の言葉を何度も繰り返す日本人とは対照的である。
大体、中国(や韓国)とはすでに講和条約を結んで国交を正常化させている。
講和条約を結んだ以上は不満が残るとしても戦争の責任は問わないのが現代の国際理解である。
いつまでも戦争の責任を問うのは古代・中世的な復習の発想である。
今の状況はとても国交が正常化した国の態度とは思えない。
一体そんなことをして両国民が喜ぶだろうか?
日本人側は「こんだけ謝ってるのにいつまでこんなことをしなきゃいけないんだ」とフラストレーションを高めていくだけだろうし、
中国人側は「中身のないことを一体いつまでしてるんだ」と、ますます怒りを募らせるだろう。
中国人は形だけの物を評価しない。実利・実質を優先する。言葉以外の物でもそうだ。
中国人は我々から見たらがめついと思うほどにほど商魂たくましいく見える。それは形式よりも実質を重視している表れである。
謝罪を繰り返すことはただの蒸し返しにしかなっていない。
謝罪を重ねるほどに、言葉を重ねるほどに、それがますます形骸化していくことになぜ気づかないのだろうか?
だから日本国としては「国としての公式な謝罪はこれを最後にする」と高らかに宣言すべきだ。
「我々は、過去の過ちを忘れない。だが今、謝罪は逆に両国に憎悪と悪意を増やしている。この悪習はここで断ち切ろう。」
これで最後だから心を込めて精一杯のごめんなさいをする。それから先はよき友好相手として付き合おう。
もちろんこれは個人的な謝罪を禁止する物ではないし、謝りたい者はこれからも謝ればいい。
でも、国としてはこれを最後にする。
そして謝罪を終わらせたとて、友好関係が崩れるわけではない。
これからも日本は中国の経済発展を支援していくだろうし、中国も良き貿易相手であり続けるだろう。
恨みが完全になくなるわけではない。でも恐らくのところ、誠意のない伝統だけの謝罪を100回繰り返されるよりも、一度きりの誠意がこもった謝罪の方が、向こうの人は歓迎するはずである。
そして、謝罪をやめても、「謝罪の伝統を復活させろ」なんてことは恐らく言ってはこまい。
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何かについて謝罪するということは、その謝罪した気持ちをずっと持ち続けるってことだよね? 一度謝罪したら、それからずっと謝罪の気持ちを持ってるか確認したくなるんじゃないか...
日本人的な感覚で向こうの人の気持ちを推し量るべきではない。 日本と中国は東アジアに属しているのに考え方・感じ方が正反対だから。 私の目には中国や韓国が謝罪を要求している...
多額のODAじゃ足りないのかな?
正直なところODAは本質的な問題ではない。 向こうにとってみればないよりかはあった方がいいだろと言う程度のものだろう。 中国が一番求めているものは日本の技術力だろう。 だから...
だから、言葉なくても日本が中国に協力的なら、それで誠意を表していることになるのだ。 「なるのだ。」じゃなくて、「なると中国人は考えている。」だと思うが。 それをあたかも...