前々から思っていたんだけど
ヤンキー先生って自称(或いはメディアでそう紹介されることをよしと)するのってどうよ。
過去の罪を引き合いにしてその人の現在をどうこう言う程には僕の人格は曲がっていないと信じている。
しかし、自らの過去の罪を売り物にして武勇伝デンd(ryを気取るのは何か違う気がする。
この人は議員をやったり、各方面で教育論とかを語ったり、教育を変えていく提言をしていく立場の人なんでしょ。
そんな立場の人間が、俺は過去に家族や教師に暴行したような事をヤンキーでしたって公言し、自らのキャラ付けに利用するのには疑問符があふれ出る。
だから、「社会を明るくする運動」のPRビデオ製作では出馬の意図がないといいつつちゃっかり参院選に出て税金の無駄使いをするだとか、
いじめをする生徒の出席停止を唱える一方でその「出席停止」をネタにした着ボイスで商売をしていたりする、
ってのも「ヤンキー」ならではの自分至上主義ではないかと思えてしまう。
メディアでは理想論をときつつも、こういうヤンキー行動をしているのは忍ともかんともである。
この人が、ドキュメンタリー→ドラマ化のコンボで有名になったタレントであり、その冠である「ヤンキー」を外せば、インパクトが無いのはわかるけど…。