完全な学問があったとして、完全な教義があったとして、間違わない神がいたとして、
しかし、それを理解しようとする人間は不完全なんだよね。
自分が信ずる対象が完全であってもなくても、学ぶ自分、信ずる自分、それらを扱う自分を、
その不完全だというカッコに入れている限り、僕は他人に対して寛容になれる。
間違っているのは僕なのかもしれないのだから。
自分への否定を、自分が信ずるものへの否定へと読み変えることこそ、
その信ずるものへの冒涜だと、僕は思う。
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