恋愛において、ベタベタしたいかしたくないかについて話をした。
自分は「相手が自分にとってかけがえのない居場所となってくれている」という実感が持てさえすればそれほどベタベタしたくない、けれどその実感が持てるまではベタベタしたい方なんだけど、相手にはその感覚は理解できなかったらしい。どんな具合にピンと来なかったのか本当は聞きたいのだけれど、もうその人自体との縁は途切れてしまったので、直接聞くことができない。
ふだん恋人や家族や、親しい人と居心地のいい関係を築いていればいるほど、そうでない外の風にふれたとき、温暖差がことのほかきつく感じられるんじゃないか。
http://anond.hatelabo.jp/20070129022310
元の文の主旨とはずれた方向への感想で申し訳ないのだけれど、この一文を読んで、かつて彼氏の家に転がり込んでどんどん他の友達とは会わなくなっていった女の子のことを思い出した。それはどこか不健全に見えていたんだけど当時は何も言えなかった。
ここからは自分の話。初めての恋人と付き合って半年で同棲に踏み切った。相手が引越ししようかななんて言い出して、ちょうど自分が就職で恋人の家の近くに引っ越そうと思っていたところにそれが重なったから持ちかけてみた。理由はいろいろくっつけたけれど、本当は自分の居場所と呼べるものを恋人の中に確立したかっただけなんだと思う。
二人とも頑固だったので、一緒に生活なんてしてみればなおのこと喧嘩が絶えなかった。その上いつもどっちかが折れる形でしかおさまりがつかず、大抵は我慢強い恋人の方が折れていた。お互いに納得の行く第三の道なんて考えもせず、どちらかがどちらかを正しいとか間違っているとか決めていた。別れ話が上がるたびに、相手を好きだからというよりは居場所を失うのがイヤでさんざんごねた。「自分たちは合っていないのだ」という判断を行うことがなかなかできなかった。結局、同棲生活は1年で破綻した。
自分が存在承認を恋人にだけ求め、ベタベタしすぎたことが別れの原因になったと思っていた。けれどこんなこともあった。仲間と飲みに行くとき二人一緒に出かけて、あまり酒を飲まない恋人がそういう場となると普段とは一転して一緒にいたがるので、自分は少しだけそれをイヤだなと思っていたのだ。「みんなで飲んでるんだからみんなと話そうよ」と言ったけれどその時の恋人は言葉もなくしょんぼりしていたような記憶がある。そういう時だけさみしがる恋人にせよそういう時は恋人を放っておく自分にせよ、ほんとにお互い自分の都合しか見えていなかったんだろうな、それがいけなかったのかな、とも思う。
信頼している相手に甘えるのは簡単だけれど、甘えられたときに応えるためには自分に余裕がなくてはできない。余裕がないときにも相手を尊重させてくれるのが「相手がかけがえのない居場所となってくれている」という実感なのじゃないかと自分は思っている。それが生まれるためにはやはり時間と経験を共に重ねる必要があるだろう、とも。
こんな風に経験を交えて話せば、もしかしたらあのひとも理解してくれただろうか?
学校でいじめられて自殺を考えてしまうような、単一の人間関係しかない小中学校時代とは違って、大人になるといろいろな人間関係ができる。 そうするとそれぞれのサークルで自分の...
恋愛において、ベタベタしたいかしたくないかについて話をした。 自分は「相手が自分にとってかけがえのない居場所となってくれている」という実感が持てさえすればそれほどベタベ...
俺が彼女といるときは この世界は俺と彼女とその他大勢だと思ってるよ ベタベタするかとか言葉で話さなきゃいけない時点でもう終わっているのかもね