出来事やそれに関わった人、見た人、聞いた人などの
などが残っていて、色々な立場の人がどう思ったか、
考えたかが、そのままの形で残っていることになる。
生きた歴史(とでも言えばいいのか)になるのか?
その時代を描いたもので、その研究をする人がいると思っている。
もちろん、この時代の出来事も後に研究してまとめる人は
いるのかもしれないけれど、Web を利用すれば
誰でもこの時代のある出来事について調べることができる。
それはありのままの歴史が残っているということになるのだろうか?
(と言うほどの存在ではないけれど)でありながら
歴史資料作りに勤しんでいるということになるのだろうか?
そのまま残っていれば、それと同じことかもしれないけれど
誰もが簡単にそれらにお目にかかれる訳ではないしな。
ところでネットでアンテナ張って情報集めてこの増田や自分のブログで、
また他人のブログにコメントやトラバして戯言書き込んでいるけれど
一体何の為なんだろうな?未来の人のための歴史資料作りなのか?
いや、それにすらならない程くだらないことを書き続けている気がする。
どうせ相手に顔が見られる訳ではないという匿名性が駄目なのか。
ニックネームといっても結局個人を特定される訳ではないし、
増田ならますます誰か分からないからな。それも何を今更な話か。
この手軽に何でも簡単に書き込めてしまうのが良くないのか。
中には真剣に考えて主張をする人もいるのだろうけれど
昔と今で「何かを書く」ということに対して重みの違いがあるのかな?
毎日 PC と数時間向き合って、自分は一体何がしたいのだろう?
考えれば考えるほど意味がないような気がしてくる。
(と、こうやって書いてみて結局何が言いたいのか分からない。
そもそも自分に何か言いたいことがあるのかすらよく分からない…)
ただの日記だろ。 難しいこと考えるなよ。
200年くらい経てば、やる男とかが「当時の風俗」として教科書に載るかもなw "Analysis of "Yaru-o" culture in early 21st century "Internet" at Japan." みたいな社会学系の論文が出るかもなw
アスキーアートって表現方法はトピックになりそうな気がするな。 テキストファイルってデータ形式と、特定のフォントの字幅に依存しているから、未来人には暗号のように見えるかも...
古代のエジプト人だって、石版に残してるのは「近頃の若い者は」的な愚痴なんだし、深く考えずに思ったことを書くのがいいと思うよ。