だいぶ愚痴。
悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
優しい人になりたいと思う。そう思っていればそのうちなれるのかというと、実際はどうなのだろうと思ってしまう。
例えば、ことあるごとに、自分は不幸です、辛い辛い、生きてる価値がないんです、シニターイシニターイ言う人に対して、表面上は死にたいなんていうもんじゃないよって言うし、まして「なら死ね」なんて言ったりはしない。そんな人でなしなことは、基本的に他人には優しくしたいし、私にも対面とかそういうものがあるから保身の面でもあんまり言えない。
しかし本心では、そんなこと言うなら死ねばいいのに、と思っている。
特に、死ぬなんてうもんじゃないって励ましてくれたり、わざわざ遠いところから自転車で駆けつけてくれたり、悩み事を聞いてくれたりする友人(私ではない。誰か別の人)がいるのに、「僕には友達がいない」とかのたまう奴。
そう思ってしまった後に、自分はやっぱり優しい人間ではないのだろうと考える。
いくら表面上体裁を取り繕っても、腹の中でそんなことを考えていては優しい人ではない…ような気がする。けれど、人間の本質なんてそう簡単には変えられるものじゃないらしい。
鬱病とか、本当につらいことがあったとか、色々事情はあるのだと思う。理由を考えれば、死にたいと嘆きたくなるのも分る人もいる。だけど、どうしても分らない人もいる。気を引きたくて死にたいと言ってるだけじゃないかと、穿った見方をしてしまう。振られた相手に見えるところにそういうこと書いてる奴とか。
本当に死にたいんだろうか。
死人の顔は近しい人の死で何度か見たけれど、あんなふうになりたいんだろうか。
自分はブサイクでモテナイし才能ないし最低だから生きてる価値なんかないんだーと嘆いてる人がいたとして、それでも生きていたいって言うのなら、それなりに応援もしたいって気持ちになる。
でも、そこで死にたいと言い出されたらもうどうすりゃいいのかと。
「死にたいくらい辛いんだね、可哀想!」って同情すればいいんだろうか。「そこまであなたを追い込んだ奴は酷い人だ!あなたは悪くないのに!」って、誰かを悪人認定すればいいのだろうか。それとも、哀れまれるのは嫌だろうか。分りやすい同情は嫌だろうか。
うん、私自身が死にたいような気分になったことないからなんだろうけどね。そして、死にたいって誰かに言ったこともないからなんだろうけどね。きっと、死にたいほど不幸で辛い目にあったことない、幸せ極まりない人生を歩んできたからなんだろうけどね。私が遭った嫌なことなんて、ほんの些細なことに違いないんだ。
…みんな、どうなんだろうとちょっと考えてしまった。
「本当は死んだらいいのにって思ってないですか?」とぶしつけな質問をしてみたいけれど、思っていてもそんなことは表面に出さないのがまっとうな社会人だし、「実は思ってます」なんて言わないだろう。
本心を隠し通せば良いだけの話なのかもしれないのだけれど、残念なことにそこまで器用でもなければ我慢強くもない。
思ってしまった後に「あーあ、思っちゃったよ」と考えるくらいである。
罪悪感があるとしたら、自分の良心に対してなのかもしれない。そう思ったほうがなんぼかまし。
少なくとも、そんなことを思わせた相手に対しては罪悪感なんか抱きたくはない。
罪悪感を抱くだけやさしいと思う 「死にたい」は「すべてを捨てて逃げたい」の意