2008-11-05

ただのコミュニケーション不全としての「空気嫁

僕が嫌いな日本語のひとつは、「空気が読めない」。空気が読めなくて何が悪いのか、理解できないから。なぜか。

たとえば京都ぶぶ漬けの話はただのネタだ。でもあれは、ぶぶ漬けが出てきたら、そろそろ失礼しますと言って帰らなきゃならない。そういう約束事がはっきりしている。この約束事の集まりが、文化であったり文明であったりする。ぶぶ漬けにまつわる決まり事約束事を知らない人は、京都人間ではなく、「空気が読めない」非文化的非文明的な野蛮なイナカモノというわけだ。

この約束事の集まりは、都市により社会により集団により違う。それぞれの集団の構成員にとって明白な約束事はあるだろう。それに従わないものは空気が読めないのだろうし、そういう場面は日本に限らずどこにでもある。

他方で、今普通に使っている言葉としてのこの「空気が読めない」といったときの「空気」って、本当に約束事としてはっきりしたものを前提としてるんだろうか。それがよく分からない。

ようはその場その場の雰囲気や人間関係やといったものの総体を読むことが「空気を読む」ということだと思う。でも、その場合に目に見えない、はっきりしないもろもろの「総体」は、当たり前だが時と場によって変わるので、たとえ同じ場所同じ街同じ人の集まりでも、一定しない。つまり空気とは一定のものではなく、常に揺れ動く。だから決まり事約束事がそう明白なわけではない。「空気読め」と言ったとき、不明確で不定なものの何を読めと言ってるんだろう。

空気読めと言うのは、読めと言っている人が考える「空気」を他の人も共有しているように思われて、にもかかわらずこの「空気」を共有しない人間がいる場合だ。見方を変えると、単に「空気」を共有しない者を排除しようとする、あるいは強制的に空気を読むことを押し付けようとしているだけではないか。

ではなんでわざわざこんな回りくどいことをするんだろうか。分からない人がいるなら、教えてやればいい。いや、そう単純にいかないのが人間関係の難しさで直接に言いにくい、というところだろう。だから、明確な言葉にせず、かといって言葉と言外の約束事もはっきりさせず、その場その場の「空気」が尊重されることになるし、その場を支配し最優先され、空気を読めないものはいらないという話になる。

言いたいのは、これってただのコミュニケーション不全でしょうと。

自分が言いたいことを抑圧して、その名目に人間関係を大事にしたいからといって直接的な表現は避けて、ただ「空気が読めないヤツだ」という。で、何が何かよく分からない「空気」に従属させるか、集団から排除する。人間関係を大事にしたいという一見優しさめいた配慮は、本当は意思疎通の努力を欠いたただのエゴイズムでしかない。

人間は、自分の気持ちや考えるために、たとえ伝わらなくても分かってもらえなくても、そこで絶望的な努力をする生き物だ。ただのコミュニケーション不全を空気読めと言いかえてごまかして、それで本当に人間なのか。人間ならば、空気を読まないことも必要なのに。

とはいうけれど、こういうわけの分からない「空気」が尊重される場面があるのは、別に日本だけでないと思う。でも、日本の場合、ちょっと極端すぎやしないか。調子に乗って新聞までこの言葉を使って「KY総理」だのなんだの書いたこともあったけど、それってどういう意味か、本当に考えたことがあるのだろうか。なにも流行言葉みたいになることはないのだ。

僕は、「空気」という言葉が、心底、嫌いだ。

  • http://taketaka.cocolog-nifty.com/mogu/2004/05/post_24.html ぶぶ漬けって実は都市伝説じゃなかったのかもしれませんよ…

    • それはどうでもいいんだよ。本当でも都市伝説でも。大事なのは、言葉と言外に指しているものの関係がそれなりに明確ならいい。それなら文化だ、ある意味。 書いてから思ったが、最...

  • 空気嫁と言われる側の痛撃を回避すると指摘する人がいたので念を押すと、それこそただの逃げでコミュニケーション不全の言い訳に過ぎない。やさしいふりをしているだけで、空気嫁と...

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