「家族など持ったら自分が死にたいときに死ねないじゃないか。」
その言葉が喉まで出かかっていたのをかろうじて留めた。
何かのために己の命を賭けること、
伸(の)るか反(そ)るかのここ一番という場面でなんら躊躇せず突っ込んでいくこと、
そういう矜持だけは常に保ち続けておきたいと願っていたのではなかったのか。
命を賭(と)すとは実は二つの概念であって、
「これが成し遂げられ_る_なら死ぬ覚悟」であるのか、
「これが成し遂げられ_ぬ_なら死ぬ覚悟」であるのか、
そのどちらかなのであるが、この探求をここに来て中断せねばならぬとは歯がゆい。
しかし考えてみれば我々は日々刻々と自分の墓に向かって歩いているわけであって、
そこには実は何の違いもないのかも知れぬ。
その道がもはや引き返すことのできない道ならば、
一人で歩もうが二人で歩もうが同じことではないか。
自分の生き様を、而(しこう)して死に様を、決める権利を留保し、
結婚という装置に自らを押し込めてみるのも悪くないのかもしれない。
そこから見える風景は今と違うものなのかどうなのか、
存外変わらないのかもしれないという気の迷いから、今日この結論に至った。
別にめでたくもないが、とにかく表題のとおりである。
確かに結婚は独身者の墓場であるかもしれない。だが一身の始末を二身に背負うのが結婚であるなら結婚は新たな「我」の誕生ではあるまいか。そしてそれが「我」である限り、そこに拘...