はてなキーワード: nedoとは
こっちは東大だったが。
学部時代から誘われてた教授のところに
特に考えず、必要としてもらえるなら、と行ったんだけど、
RAやTAの給料を研究室に丸々上納するのが当然だった、みたいな。
先輩方、博士号なかなか取れてません、みたいな。
でも、そんなに悲惨だったわけじゃない。
自分には運動部的なノリがあるから、雑用をする分には別に良かったし、
1章書いただけの、共著だけど、一応本も出たし、
悪くは無かったと思う。
教授のことが嫌いになったわけじゃないし、
教授の考えの一番の理解者だったんじゃないか ぐらいの、自負はあった。
ただ、正直、ここじゃ学振は無理だなとM1の秋に思って辞めた。
だって、研究は、これっぽっちも進まなかったから。
日本でも産総研とか理研なんかのRAとか(研究室のコネもあるだろうけど)、
とにかく研究室に籍は置きつつも、お金のあるところでの研究活動に移るべきだよね。
研究室の雑用をサボる理由にもなるしね。
適当に discussion で我田引水しとけば、 corresponding author になれるんだから、
こういうやり方は双方にとって悪い話じゃないんだ。
そうやって、うまく立ち回ってた人もいたので、できないことではない。
まあ、俺にはできなかったが。
自分を売り込んでかないといけないんだと今は思う。
やめるときに退学届けに判子をもらうために
研究科長のところにいったら
「朝は起きられるか」
と聞かれた。
何を言ってるんだこの人?と思ったけど、
「朝は起きられるか」
がポイントみたいだな。
大学院に入りなおすことを考えていたが、
奨学金抱えてて金銭的にヒヨった。
学部時代に運動部に力入れすぎて、
GPAが悪かったってのもあったが、
まあ、いろんな意味でヒヨったね。
今じゃ、普通に働いている。
結婚までしちまって、
ますます留学が遠のいた。
俺も、金のエンゼル当たったことないや。
追記:
そういや、友人に「ワープアになっても研究続ける」って言ってたのがいて、
その後 DC2 が取れたみたいで、俺のほうもほっとした。
学振があるのとないのとじゃ、余裕が違うからね。
というか、DC1 ならまだしも DC2 が取れないようなら、放り出すべきだと思うよ。
自分で目が覚めるのならいいけど、
そうでなかったらほっぺた引っ叩いてやらなきゃ。
それなら誤解を詫びるが、たとえばこういうコメントを見ると反原発と誤解されても仕方ないと思う。
[はてなタックル][本題とはずれるが]レアなリスクに対する対応って推進反対側どっちもどっちに見えるな。科学哲学的にも難問を語るヒマあったら、淡々と経済的に許容可能な再生可能エネルギーの実証していけば、擬似問題でしかなくなるのにといつも思う
http://b.hatena.ne.jp/ruletheworld/20080814#bookmark-9642417
あなたの言うとおり原子力は「一世代は主力の一端を担う存在」になるしかないのであれば、少なくとも一世代の間は「疑似問題でしかなくなる」のは無理なのだから。
それは私も否定しない。素人考えだが。
それは見過ごすまでもなく自明だから敢えて語らなかったまで。その自明な事実から誤った結論を導くことを批判するのが元記事の趣旨。
「気を払わない」というのはあなたの価値観から見てそう見えるだけ。この件に関しては、元記事で引用した資料にも載っていた
しかしながら、わが国においては、発電も目標にした開発プロジェクトである、電力中央研究所の雄勝とNEDO の肘折の両現場実験プロジェクトが02 年度までに一応の終止符を打つことになった。大変残念なことである。
この原因は、産学官のいずれにもあるように思う。それらの一つについて、復習をかねて以下にのべてみる。
設計工学の立場からみれば、単純化による第一次的近似から、より複雑さを考慮したものに、段階的に研究開発を進めていくという定石がある。未踏の分野においては、定石の手順はすでに得られているものではなく、研究開発の当事者が創り上げなければならない。
定石の手順の初期の段階において、その時点での成果を過大に評価し、実用化が近いかのような甘い期待をスポンサーに与えてしまうことがしばしばある。このことは、細心の注意を持って厳に慎まなければならない。
おそらくこれに尽きるのではないかと思うが、単に私は新エネルギーよりは原子力の方により詳しいから細かい評価を差し控えたというだけのことだ。総論としては新エネルギーの開発を促進せよという主張には何の変化もない。
それを「偏重」と呼んでしまったり、あるいは「悪質なプロパガンダ」と呼んでしまうのであれば、逆にあなたこそが「反原発厨」であるとの誤解を避けられないと思うが、いかがか。正直、あなたは自分の立場と他人の立場の一致に不寛容すぎると思う。主張の理非ではなく、言葉が過ぎる。