はてなキーワード: 非常識とは
こういう文章を見ると日本も終わりだなと思う。
小学生の作文よりひどいじゃないか。
何度も何度も言うが、こういうのは未就学児が親からチラシをもらって落書きしてるのと同じなんだよ。
相手の態度がおかしいと思ったらちゃんと論理立てて意見を述べればいいのであって、感情に任せて騒ぎ立てればいいというものではない。
もちろん、相手のことが嫌いだという感情表明であればわからないでもない。
単にスルーするだけだしね。
でも、相手を正そうとするのであれば、ちゃんとした文章構成をもって、相手にもそれなりの論理があるのだったら、こちらもそれなりの論理で応じるべきだ。
それがキャラクターだというのなら、他人のことに口出しするな。
それができないのなら単なるガキだ。
あと、私は以前からkyoumoeに対しては割とどうでもいいスタンスだということを付け加えておきます。
なるほど、「常識」ってのは単に多数が共有する知識・意見のことだと思ってたんだが、多数派が非常識なんて事態が起こり得るのか。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BE%EF%BC%B1&kind=jn&mode=0&base=1&row=0
http://anond.hatelabo.jp/20070116132719
↑なんか使用例が違うような気がする。
リンクフリー派は無断リンクが常識だと思っているし、無断リンク禁止派はリンクが無断リンク禁止が常識だと思っている。
で、『○○だろ、常識的に…』というフレーズは相手の非常識を糾弾しているように聞こえる。
自分が適切だと思う例は今回の宮崎知事選。
なぜなら、そのまんま東を投票した人も「そのまんま東に投票するのが常識的に当然」とは思っていないだろうから。
『○○だろ、常識的に…』と言ったら、相手側が『ああ、××と考える俺たちは非常識さ』と、
答えるよう事柄でないとスマートでないと思う。
「助手席が空なのが耐えられない、其のシートにあの娘がもう二度と座ることがないと思うと泣きたくなる」ので「車そのものを変えた」という話を知った。
私の感想。
相手は失恋中だ、と思い、変えたところで空では?と言いたくなるのをぐっと堪えていい加減に相槌を打ったのだが。
衝動に駆られるまま、何か大きな事・普段ならしないことを行うことで逃避したり仮初めの癒しを得たりする、というのは判るのだが、非現実的だったり非常識に過ぎる行動やというのは後々また自身を苦しめるのではなかろうか。もっと現実的な発散の手段を模索すべきだろう…
もう一生女なんて信じない関連。
pal-9999の日記 - セックスする友達というのなら文句は言わんがのはてブコメントとか読んでて納得いかなかったので書いてみた。
http://www8.plala.or.jp/psychology/topic/personal.htm
腕を伸ばして届く範囲ぐらいが「親密なスペース」と呼ばれ、フツウは恋人や家族のような「触られても気にならないほど親密な関係」以外の人に入られると不愉快に感じる。
反対に、そのスペースに入るのを許すことは「あなたと私は親密な関係だ」と暗に認めていることにならないだろうか。相手に自分の「親密なスペース」に入ることを許すこと。これを仮に「親密フラグ」と呼ぶことにする。
一人暮らしの部屋なんて、大抵はワンルームでベッドがある。私はベッドがある部屋だって十分に「親密なスペース」だと感じる。学生時代、同性の友人の狭い部屋に招き入れられた時でさえ、私の気持ちは妙に高揚したものだ。友人の「親密フラグ」を感じ、自分が彼女にとって「その他大勢の友達とは違う特別な存在」と感じたからだ。
思春期に、同性をやたらに「親密なスペース」に入れたがる時期っていうのがある。
中学生ぐらいになると、遊ぶといえば誰かの部屋で、何するでもなくマンガ読んだりファミコンしたり延々とコイバナやエロ話をしていたものだ。このように青春の一ページでは、同性に「親密フラグ」を立てまくっては、大喧嘩したりいじめがあったりと何かしらの失敗がある。
しかしハイティーンになるにしたがって、その「親密なスペース」の開放を、グループではなく1対1の関係(多くは男女交際)に求めることが多くなってくる。(男の子の場合、体育会系クラブや会社など、いわゆる「ホモソーシャル」な組織への従属ってのが挟まることもある。)この「親密なスペース」を限られた人にのみ許す、という変化は、1対1の親密な関係を築けるようになる、というごく当たり前な精神的成長の一側面と捕らえることができる。
しかし中には、この精神的成長の途中でなぜか、「親密なスペース」をお互いに許しあってこそ友達だ、という考えに到る人たちがいる。
「友達なんだからいいだろう」と、非常識に部屋に居座ったり、ベタベタ触ってきたり、お金などごく個人的な部分でルーズに寄りかかってきたりする人たちを見ると、一人一人の「親密なスペース」には結構差があるんだなあ、と感じると共に、1対1の親密な人間関係を築く方法を身に付けきれていない「未熟さ」を思わずにはいられない。
惹かれる心というのは本能的な感情だと思う。自分の命を守る上で欠かせないと感じる人に出会ったとき、どうしようもなく人に惹かれるのだと思う。これは性別に関係のない感情なのではないか。相手を必要だと思い、もっと近づいて親密になりたいという願い。これは、最終的には肉体的接近を伴うものであろう。異性であれば子を成したいと願うし、同性であれば群れを成したいと願う。同性同士での性的行為に及ぶことも、人間だけではなく様々な種でしばしば見られることである。
人間であれば、そこに文化的な装飾が絡んでくる。
異性愛が推奨される文化の中では、同性同士で一定以上の肉体的接近に到ることは少ないだろうし、一夫一妻の文化の中では、一度に複数の異性に惹かれることを文化的にタブーとする。
つまり、「惹かれる」という非常に本能的な感情を、わたしたちは「恋愛」という文化で解釈することにより、日々の人間関係を営んでいるのではないかと思うのだ。
この「恋愛文化」の解釈モデルをドグマとして信望するあまり、本能的な振る舞いを許容できなくなっている人が多いと感じる。「好きになったらあなただけ。他の人にときめくなんてありえない」というドグマにとらわれすぎて、たまたまときめいちゃった時に「このときめきは本物」とかいって恋人や家族を捨ててどこかへ飛んでいってしまうようで、解釈に振り回されるというのはとても不自由そうなものだと感じる。
「親密なスペース」を許すこと、すなわち「親密フラグ」を立てることは、これから親密な人間関係を築こうとする二人にとって、非常に重要なコミュニケーションになる。お互いの「親密なスペース」に侵入しあうことなしには、性的関係に到ることはできない。翻って「親密フラグ」を立てるということは、やはり性的関係に到ることへの実質的な許可と捕らえられてしまっても、やはり仕方がないのではないだろうか。
腕に絡み付いてきたり、平気で男の子のワンルームに上がり込んだりする女の子は確かに存在する。彼女達の多くは、おそらく「親密なスペース」に入り込まれても拒まれない、つまり相手の「親密フラグ」をもぎ取ることが気持ち良いのではないかと思われる。彼女達はその関係に、必ずしもセクシャルな関係を求めない。中学生時代に同性の友人と共有したような、「親密で楽しいだけ」の関係を求めているように見える。そういう意味で、彼女達の「親密な関係」は未熟なものであると言えよう。しかしそれは逆に言うと、「親密な関係」に「セクシャルな関係」を求められることを苦痛に感じている、とも解釈できる。
しかし、これをやられるとたまらないのは男の方である。彼女達はどちらかと言うと「親密なスペース」に保守的な男の子を狙うことが多い(決して意図的ではない)。突然かわいくてやわらかくていいによいの女の子が「親密なスペース」に入り込んできて、とても楽しそうにする。普段立てたこともない自分の「親密フラグ」を、立たされっぱなしにされるわけだ。彼らは振り回されながら、遠まわしに打てども響かない彼女達の「親密フラグ」を信じ、耐え切れなくなってセクシャルな関係を求め、玉砕する。
「あなたがそんなことを考えていたなんて信じられない」「ずっと友達でいたかったのに」「もう二度とあのころには戻れないんだね」といったメガトンパンチに、再起不能になってしまう人もいる。中には、男は完全に同意のつもりであったのになぜかレイプで告訴されてしまう、と言うケースもあるだろう。(だからってレイプが正当化されるわけではないが)
こんなウサギさんばかりでは、純真な狸たちはますます恋愛に怯え、親密な関係を築けなくなる。
男女の友情は、成立するのだろうか。私は「成立する」と断言したい。
そのためには、まず、本能的に「惹かれる」と言う感情を認めることだ。世に「親友」と呼ばれる人たちの間には、どのような形であれ「惹かれあう」感情が存在するだろう。男女であれば、惹かれあった末の「親密な関係」は性的関係を惹起する。これは動物として仕方のないことだ。
友情に「親密フラグ」はいらない。「親密フラグ」がなくたって、十分に友情を育むことはできる。人生を語り合って、楽しい思い出を共有して、つまづいた時には手を差し伸べあうことができる。
「親密フラグ」さえたてなければ、男女の友情は成立する。すなわち、1対1の人間関係において「親密フラグ」をコントロールできる人間にのみ、男女の友情は許されるのだ。