はてなキーワード: メーテルリンクとは
チルチルとミチルは青い鳥を探して色んな国を旅するが、結局見つけられずに家に帰ってくる。すると、昔から飼っていたキジバトが青い鳥へと姿を変える。
この結末について、「幸せは案外身近にある」と解釈する人が多い。それが一般的と言ってもいいかもしれない。
しかし、実はこの解釈は間違っている。いや、物語の解釈なんて読み手の自由だから正確には間違っているわけではないのだが、少なくともメーテルリンクの意図とは異なる解釈である。
実は、チルチルとミチルが旅に出る前、飼っていたキジバトはただのキジバトでしかなくて、決して青い鳥ではなかった。チルチルとミチルが「青い鳥であることに気付かなかった」のではなくて、本当に青い鳥ではないただのキジバトだった。つまり、「キジバトが青い鳥だった」のではなくて、「キジバトが青い鳥になった」が正しいのだ。
では何故キジバトが青い鳥に「変わった」のか。そこにこそメーテルリンクのメッセージがある。
メーテルリンクによれば、「幸せ」はただ待っていても手に入らないものである。それを求め、努力することで初めて手に入る。
チルチルとミチルは、青い鳥を探して旅に出た。そして色々な国を巡り、色々なものを見、聞き、知った。幸せを求めて苦難の道を歩んだ。そうした旅を終えることで、初めてチルチルとミチルは青い鳥を見つけられるようになったのだ。
たとえば、チルチルとミチルが旅に出ず、キジバトを丹念に調べたとして、それが青い鳥になることは無い。キジバトは、チルチルとミチルが旅をしたことで青い鳥へと「変わった」のだ。
青い鳥は、旅が終わるまでどこにもいなかったのである。
「幸せ」は決して「気付かないだけで身近にある」のではない。身近だろうが遠くだろうが、「旅をしなければ手に入らない」ものなのだ。
「銀河鉄道の夜」には色々なバージョンがあるのだが、最後「銀河鉄道」の夢から覚めたジョバンニの手に、夢の中の列車の切符が残っているというバージョンがある。ファンタジーをファンタジーに終わらせず現実へとつなげていく……というパターンを創造したという意味では、日本の作品の中ではおさえておくべき原点の一つのような気がする。ちなみに、「夢かと思っていたら、その夢は実は現実と地続きだった」という、またの名を「終わらない悪夢」パターンの話は、たとえばメーテルリンクの「青い鳥」や、J・M・バリーの「ピーターパン」なんかも入るかも。ただしこれらの場合「アイテム」は必ずしも存在しない。