知識ってどこまで膨張するんだろう。どこまで先鋭化して、問題の善悪を見分けさせなくするんだろう。
きっと物事に取り掛かるスタンスが元々崩壊しているからなのだと思うけれど、ひとつの問題に突き当たったとき、すごく困ってしまう。
答えが見つからないから。答えなんてないのだけれど、気持ちよく居座ることのできる場所を見つけられない。
何か情報を得て感情が揺り動かされたとき、その感情の揺れが果たして適切な判断であるのか、偏った見方になっていないのか気にかかってしまうのだ。
だって、どちらの意見も尊重したい。こんがらがった糸を解くために、両方の端から糸を辿っていきたい。
でも、そんな風にしてたくさん知っていくうちにわからなくなる。どうしてそのような事件なり政治なり出来事が起こってしまったのか、知れば知るほど口を噤みたくなる。
死刑制度の問題と同じだ。初めから立ち位置を決めて物事を考えたくないから、賛成派反対派どちらの意見もスポンジのように吸収してしまう。
結果、何もわからなくなる。
そういう状況って、中立と似てるような気がする。中立ではないのだけれど、きっとそれなりに近い場所にいるような気がするので、そう思ってしまう。
そうして思考停止。目を背け耳を閉ざし、さっきまであんなに関心があったはずのことをダンボールにしまい込んで、何も考えなくて済むような娯楽に走る。
ただ、時々、何事においても、ただ見守っていられるだけであったならどんなにいいことなんだろうとか考えたりする。
そこは楽そうで、でもきっと辛くて、現状と変わりないんじゃないかと気がつきそうになったりする。
知ってしまったから関わりを持ち、問題があることを、衝突や答えの見つからない現実を見る羽目になった。
知ってさえいなければ、変わり行く社会に流されるまま、主体的な権利を弄されることが有り得ることに気がつかなかった。
どちらが良かったのだろう。
知ってしまう不幸と、知らないままでいる不幸。変化を勝ち取る可能性にかける力強さと、変化を勝ち取るために必要な苦悩。
つくづく浮世は世知辛いと思う。