田中角栄以来の、無学無教養でも地元に公共事業や補助金を持ってくれば当選を重ねられるという日本の政治風土を象徴する議員が、また一人減った。喜ばしいことである。
国政を論じる為の国会議員でありながら、地元の為だけに働くという利益誘導型議員がのさばるのは、いずこの民主主義国家でも同じであるが、モノには限度がある。
こういった利益誘導型政治家の地盤となっている地域は、他の地域からは民度が低い部落・在日スラムと同じような地域と見られ、余計に、補助金や公共事業にすがりつかなければならなくなる。
負のスパイラルは、一度始まってしまうと、どんな説得も届かなくなる。福祉や年金や補助金や公共事業に依存する人々が多数派を占めてしまえば、それらの生産性がマイナスの支出をいくら増やしても国家は豊かにならないという正論は、少数派の意見として黙殺される。正しい意見であるが故に、不快な主張であり、言い方が気に食わないとか、大衆の支持を得ていない少数派の意見であるからと、無視できるようになる。
人間は、全体の利益を個の利益よりも優先する公共心や、私利私欲よりも道理や理性を優先する道徳に従うとは、限らない。むしろ、それらをいかにしてごまかして個の利益・私利私欲を充足させるかに、時間と労力を費やす傾向が強い。
人を一番怒らせるのは事実を指摘する事である以上、理性に訴えかけても通じるとは限らない。むしろ、指摘が正しければ正しいほど、反感は募り、権力の行使を正当化したり、多数を恃んで多数決による正当化を計るようになる。
暴力や権力によって間違いを正さなければ、いつまでたっても間違いから抜け出せない人が必ず発生してしまうというのが、階層型権力構造や多数決原理の欠陥である。
内政においては、暴力や権力が必要の無い状態が平和な状態であり、正しい状態である。間違いを正当化する為に権力にすがりつくのであれば、それをやめさせる為に、権力や暴力を行使しなければならなくなる。自分の為に使う権力や暴力は正しく、それを邪魔する権力や暴力の使い方は間違っているという主張は、最初の権力や暴力に依存しなければならない時点で間違っているのだ。