部屋に戻って来ても、僕と彼女に会話はなかった。部屋の利用方法に関する質疑応答はあったが、それ以外は本当に何もなかった。パーティの感想すら、なかった。
僕達はシャワーを浴びてしまうと何もする事がなかったので、早々と眠る事にした。まだ23時だった。
僕は彼女に会うのは2年振りくらいで、彼女が大学を退学してから何をしていたのか知らなかった。病気の治療だと噂で聞いていたが、真相は判らなかった。現に、目の前の彼女は以前と変わっていないように見えた。髪型も体型も変わっていない。
彼女の友人らしいが、僕と全く面識のない人物の誕生日パーティに一緒に行こうと誘われたのは一週間前だった。僕は彼女に誘われた事が嬉しくて、何も考えずに承諾してしまった。今、後悔している。彼女と同じ部屋で近い距離で眠る羽目になるとは思わなかったのだ。泊りがけだとは聞いていなかった。全く眠れる気がしない。
遠慮せずにアルコールを飲むべきだったと僕は思った。もともと下戸なのだが、こんな事になるなら悪酔いしていた方がマシだった。
僕は寝返りを打つことすら出来ず、小さく息を漏らした。
「なあ、サツキ」彼女が背後で囁く。背後といっても、勿論1メートルくらい離れている筈だ。「一緒に寝てもいいか?」
「寒い?」
「うん」
彼女はグラスに2杯ほど日本酒を飲んでいた。僕よりは酔っ払っている。酔った振りをして僕をからかっている可能性もある。
彼女は僕のベッドに遠慮なく潜り込んで来た。僕は彼女に背を向けたまま、更にベッドの端に身を寄せる。後ろからくすぐったいような甘い花の香りがした。
「あの、俺は」と僕は言った。いつになく緊張していた。「以前みたいな事になっても責任は取れない」
言ってしまってから、こんな突き放したような喋り方をしたかった訳じゃないと思う。
「私が誘ったらまた抱いてくれる?」
彼女は抑揚のないひくい声で言った。
僕は答えなかった。
2年前、彼女とセックスをしたのは夢だったんじゃないかと半分疑っていた。僕の記憶に残っている、彼女の骨張った体の感触も、それでいて冷たく滑らかな皮膚も、温かく湿った性器も、全部僕が捏造したものだったらいいと思っていた。
僕の方から誘ったなら、僕は僕だけを責めていられただろう。
彼女はその翌日から大学に来なくなった。数週間後に退学したと聞いた。本当に病気だったのか、別の分野を学びたくなったのか、就職でもするつもりなのか知らないが、僕の事が気に入らなくて当て付けに辞めたとも思えるタイミングだった。
2回メールを送ったが、返事はなかった。
「俺、付き合ってる人がいる」
「前も聞いた」
「以前とは違う人だけど」
彼女は黙った。
「君に振られてから、俺は君の事を諦めたつもりだった。君は俺の大切な友人で、それ以上でも以下でもない。そう思ってた。でも、俺は、君を性欲の捌け口に出来る。高校の頃、君に言われた通り、君への好意だと信じていた物は純粋な愛情じゃなくてただの性欲だったのかもしれない」
「愛情も劣情も継続する物ではないから、例えばセックスの最中にお前が私を3分くらい愛してくれたらそれでいい」
「俺をからかって面白がっているんだろう?」
「私はもう十分苦しんだ。そして、諦めた。私は男を愛せない。だが、お前は私が女である限り私に欲情し、それを愛情だと勘違いする。生まれてくる性別を間違えたな、サツキ」
彼女が僕の事を少なからず好いてくれている事は気付いていた。だが、僕達が愛し合うには性別という壁があった。それだけだが、我々には一生掛かっても取り除けない厚い厚い壁だった。
もし仮に僕達が女同士だったとしても、愛し合った末に性行為をしたかもしれない。そして、彼女はそれを自然な事として受け入れるだろう。彼女はただ、男に性欲の矛先を向けられるのがとても不愉快なのだと思う。
僕が彼女を愛する上で、彼女の性的嗜好は正義であり、彼女が不快だと言えば僕は身を引くしかない。
「何で、俺としようって思ったんだ?」
「男とするセックスは気持ちいいと思った事がないが、お前が望むなら我慢しようと思った。今だから言うが、私は愛情表現のつもりだった。お前を独占したかった。たとえ3分でもな」
彼女は僕の腕の辺りを探り、湿った小さな手で僕の手を握った。
僕はどう反応していいものか迷った後、軽く握り返した。自分の掌に汗をかいているのを感じた。
彼女のつるりとした手の甲の感触で、僕はあの日のセックスの一部分を鮮明に思い出す。
今すぐにでも彼女を抱き締めたかった。
「言葉では何とでも言えるけれど、俺は、君の事を愛している」
「言葉は信じない」
彼女はそう言い、ふっと鼻で笑った。
「今の俺には言葉で伝えるしか、術がない。それに、君は今だって俺を独占しているじゃないか」
「うん。その通り。ただ、もっと、満ち足りた気持ちになるんじゃないかって、期待してた。今も、してる」
僕の脚に、彼女の足が触れ、すぐに離れた。
僕は彼女の手を強く握ったまま、ただ、自分と彼女の息遣いを聞いていた。
何度交わっても、彼女を落胆させるだけだと僕は思った。彼女の真意も、今どうするべきなのかも判らなかった。
「おやすみ」と彼女は小さな声で言った。そして、更に声をひくくして付け加える。「有難う。からかって悪かった」
僕は何も言えず、唾を飲み込んだ。握った手を緩める。
彼女は僕が手を離すまで、動かなかった。
「おやすみ」
彼女は手を引っ込めた後も、ベッドから出て行ってはくれなかった。