これは過激になって駄目になった文学に対する激励文。
過激さは別に問題じゃないんだ。
過激だから文学ってわけじゃないんだ。
勿論過激さはありだよ。だけどそれだけを抜き出してどうこうできるわけじゃない。
致命的なのは過激な人たちは人を楽しませようって感覚がないんだ。
いや、とびきり退屈な人だっておなじなんだけどさ。
だけどあれは意外なものでもなんでもないんだ。
それは必要だからだ。もはや手段となってしまったんだ。
あらゆる意味での暴力のないストーリーなんて作れないんじゃない?
とても過激なものにするか、とても洗練されたものにするか。
ああ、だけど言葉の定義ってのはあんまりにつかみどころがないね。
どこまでが暴力?脅しが?セックスが?それとも単純な殴る蹴るだけ?
新しいものって何?今更反小説って言っても、ねえ。
糞みたいに退屈で、作者も楽しめないって状況に陥ってることを書いているし。
自由にやらせちゃだめなんだ、きっと。
どこかの誰かの制限が面白くさせるって面は確実にあるんだろうな。
読者の存在を念頭に置かなければ多分面白い物語は書けないんじゃないかな?
前衛は消えた。誰もが素朴なリアリズムを純文学だと思っている。
多分そのうち純文学は歌舞伎みたいなものになるんだよ。いや、もうなっているのかも。
文字を使った何かはきっと残るんだろうけどね。
誰も否定できないものをやってなにが楽しいんだろう?
誰も理解できないものを書いてだれが楽しむんだろう?
俺はスリップストリームがそうだと考えているんだけど。
だけどそれだってポール・オースターとカート・ヴォネガットがずっと前にやっている。
佐藤友哉の後を追っても仕方がない気がするよ。
それ自体が何か暗示してるのかな?
この時代の何を描いているのかな?
行き詰るのはまあ、いつものことで。
それでも少しずつ潜っていられるのは素晴らしいことで。
何か書かずにいられなくなってその文章が小説についてってのは、
ちょっとした皮肉だけど。
それは仕方ないこと。
焦ったってどうにもならないし。
そういうことはわかってるんだけどね。