2010-05-24

ワナビふたたび。

これは過激になって駄目になった文学に対する激励文。

もしくはあんまりに平和で平凡な日常に対する疑問文。

俺は価値観を揺さぶるようなものが文学だって言ってるけどね、

過激さは別に問題じゃないんだ。

過激だから文学ってわけじゃないんだ。

勿論過激さはありだよ。だけどそれだけを抜き出してどうこうできるわけじゃない。

致命的なのは過激な人たちは人を楽しませようって感覚がないんだ。

いや、とびきり退屈な人だっておなじなんだけどさ。

去年受けた文学講義内容を拝借。

恋空小説なの?

だけどあれは意外なものでもなんでもないんだ。

セックスレイプ妊娠中絶普通のことなんだ。

日常でってわけじゃないよ。物語の中でってこと。

暴力はどんな物語にも出てくる。

それは必要だからだ。もはや手段となってしまったんだ。

あらゆる意味での暴力のないストーリーなんて作れないんじゃない?

とても過激なものにするか、とても洗練されたものにするか。

ああ、だけど言葉定義ってのはあんまりにつかみどころがないね。

どこまでが暴力?脅しが?セックスが?それとも単純な殴る蹴るだけ?

新しいものって何?今更反小説って言っても、ねえ。

筒井康隆も巨船ベラス・レトラスで制限のない前衛小説

糞みたいに退屈で、作者も楽しめないって状況に陥ってることを書いているし。

自由にやらせちゃだめなんだ、きっと。

どこかの誰かの制限が面白くさせるって面は確実にあるんだろうな。

読者が存在するからこそ作者が存在するってこと。

読者の存在を念頭に置かなければ多分面白い物語は書けないんじゃないかな?

前衛は消えた。誰もが素朴なリアリズム純文学だと思っている。

多分そのうち純文学歌舞伎みたいなものになるんだよ。いや、もうなっているのかも。

文字を使った何かはきっと残るんだろうけどね。

それは一体何なんだろう。戯曲文学ライトノベル

誰も否定できないものをやってなにが楽しいんだろう?

誰も理解できないものを書いてだれが楽しむんだろう?

俺はスリップストリームがそうだと考えているんだけど。

だけどそれだってポール・オースターカート・ヴォネガットがずっと前にやっている。

佐藤友哉の後を追っても仕方がない気がするよ。

「現代的」な日本作家は誰かの模倣って状況。

それ自体が何か暗示してるのかな?

この時代の何を描いているのかな?

行き詰るのはまあ、いつものことで。

それでも少しずつ潜っていられるのは素晴らしいことで。

何か書かずにいられなくなってその文章が小説についてってのは、

ちょっとした皮肉だけど。

それは仕方ないこと。

焦ったってどうにもならないし。

そういうことはわかってるんだけどね。

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