昼間、ひろゆきと勝間が幸福度うんぬんについて語る動画を見ていた。
あの一連の議論について、どんな評論よりも真実を突いていて面白かったのは
俺の知り合いの一言で「2人とも特徴的な鼻をしているね」というものだった。
ところでさっきTV番組を見ていた。
日本の過疎の島だか村だかに暮らす人々を扱っていた。
ある日、小学校で子供たちの学習(したことの)発表会があるという。
それが村の一大イベントでジジババがもう総出!
子供がいない爺さん婆さんも学校に集まって、子供たちの劇や合奏を見るわけ。
手をたたいて喜んだり、微笑んで見守ったりして
ホクホク顔で「楽しかったです」「元気をもらいました」とか言って帰っていった。
それをうちの父親と見ていたら「昔はこんなもんだったんだよな」と言う。
でもね、父さん
こんな学芸会より魅力的な娯楽をたくさん見つけることは出来るんだよ!
・・なんて俺は言わなかったし、思わなかった。
むしろ、あっちの方が幸せなんじゃないかなと考え始めた。
母には、以前「デパートへ行くなんて昔は家族総出で一大イベントだったのよ!」と聞いた事がある。
今みたいにファミレスなんかが無かった時代、
デパートのレストランは普段家庭で食べられないような色んなメニューがある、魔法のような場所だったと。
今の時代に俺がファミレスに行って魔法のような感動を味わうことなんてきっと無いだろう。
地域で有名になって、ファンが増えて、販売量を増やすために日本全国へ届けるべく拡大した赤福。
もちろん、あんな事件が発覚したのは企業の体質が1番の原因だったろう。
ただ、本拠地でしかウチは売らないよ!欲しけりゃ買いに来な!とあの地域だけでやってれば
それで何事も無かったんじゃないかなと時々思う。
そういえば昔に比べて早朝から深夜まで営業してる店も増えた。
それはもう増えすぎたほどに。
欲しい時に欲しい場所で、どこかにある「より素晴らしいもの」が手に入る時代。
それは“ありがたみ”が失われた現代の姿だ。
たとえば、生まれてきた子供たちは小さな頃からミンナモッテイル携帯ゲームを与えられる。
彼や彼女たちは、向き合わざるを得ない退屈な事の中から
面白さややりがいを見つける能力をどれだけ育んでいけるだろう。
個々人の異なった制約の中に、自由を生みだし獲得する能力は
ゲームをしてるだけで身につくだろうか。
・・プロアクションリプレイを使う議員の子供にはきっとつかないだろう。
より便利なもの、よりよいものを知るってそんなに大事なんだろうか。
より質の高い暮らしをする理想のもとにグローバリゼーションが進んだのはわかる。
だが、そのために現代人が払った犠牲は大きすぎたように俺は思う。
これからの時代は
「こんなにいいものがありますよ!」と
何処かから何かを持ってくる人より
「今あるものをこうすればもっとうまく使えますよ」
「つらいこと・不便なこともこんな風にすれば楽しめますよ」
そういう人をそばに置いていきたいし、自分もかくあろうと