冒頭に示したエントリにもあったが、そもそも現代の日本社会に於いては子育てはほぼ100%母親の仕事だ。最近でこそ夫も家事を手伝うなどの風潮が現れつつあるが、それでも平日の日中は基本的に出勤しているので、少なく見ても起床時間の半分以上は妻が一人で子の面倒を見ざるを得ない。また両親との同居なども少なくなっており、日中気軽に子供を託す先がない。
病んでいるのは母親ではなく社会の方だ。その病変が、一番圧迫される母親の暴走という形で表出しているに過ぎない。「何かあったら母親のせい」ではないのだ。母親が目を離さざるを得なかったのは、育児以外の様々な雑事から解放されなかったから。母親が目を離している間誰も見ていられなかったのは、育児や家事を代行する人間がいなかったから。母親が見ていなければならなかったのは、父親が育児を肩代わりしていないから。父親が肩代わりしないのは、男が社会で働くものだという社会の前提があるから。……要するに、幼児が短時間のうちに事故死したのだとすれば、それは回り回って社会の責任なのだし、少なくとも母親一人が背負う罪ではないのだと。
そんなことで「社会が病んでいる」といわれても。
社会で働くのは母親もだ、という前提の社会がやってきたって、母親の勤務時間が長くて父親が家事をメインにやれば話は何も変わらない。妻だの夫だの、母だの父だのという話だろうか。これは「親」の話だろう。背負うのは母親ではない、親だ、となれば文中で言う「そのようなメンタリティ」が無くなるのだろうか。一人で抱えれば暴走するが、二人になれば完全に責任を負おう、となるのか。本当に?
ところで、この話では社会の不具合が解消されるそのときまで、母親の不遇も解消されない。解消は解消でやればいいが、こんなもの本人も書くように「両親との同居なども少なくなっており、日中気軽に子供を託す先がな」いのなら両親と同居すればいいのではないか。社会を変えるまでもない。
変える必要などない、というのではない。解消する方法が他にもあるのなら、併用すればいいというだけのことだ。もちろん、社会の問題を解消するのは結構。だが、いつ解決が達成できるかわからないような問題提起より、今できることで「今ある母親の不遇」を解消することも考えてよいと思われる。具体的な問題解消策なしに、少なくとも当面は解決の兆しが見えないよね、という絶望的状況を知らしめることでおこる「暴走」というのもあると思うのだが。
しかしたとえば両親が共働きで同程度の収入・同程度の拘束時間の夫婦であったとしても、子供になにかがあったときに「両親はなにしてたんだ」「父親はなにしてたんだ」よりも「母...
そのエントリ(とリンク先の非実在青少年問題エントリ)って、 非実在青少年問題にせよ予防接種問題にせよ「状況が悪化したのは母親のせい」だと言っているのに気付いてないのかな...