必要かどうかは別として、父親役と母親役をみて育つことがある種の社会性を育むことにはなると思う。
つまり、父性に対して母性がどう振舞うのか?
または、その逆は。
というのはやはり普遍的に置き換えることができるのだろう。
ただ、現代において「本当の」父親や母親がその役割を演じられているのだろうかというのも疑問に思う。
もちろん、ある程度の割合で家庭が正常に機能していると考えられる。
しかし、昔のように類型化できなくなっている、つまり多様化しているというのが実感だ。
では、そういう場合どうするのか。
いくつかあるかとは思うが、小説や漫画など物語を読むことで、学習することが一つの解決策としてあげられるのではないか。
先天的に身につけることが出来なくても、後天的に父性や母性は身につけることが出来るだろうと思う。
ところで、
おそらく、元益田の問題は、これに尽きるのだろうというのが自分の考えだ。
自分に厳しく、人に厳しい。
自分も人に甘えることを許さないし、人が自分に甘えることも許さない。
そのあたりで対等という言葉が出てくるのではないだろうか。
このことから考えると、甘えることが出来なかった家庭環境はおそらく人格形成に影響を及ぼしているだろう。
ただ、これは父の存在そのものが、つまり
だって女らしくしても誰も(父親の様に)カワイイと褒めてはくれないし、求められてもいないし、喜びもしなかったから。
ということでは、ないと思うのだ。
つまり、セクシャルの問題ではなく、性格の問題といえるのではないか。
自力でなんとか出来なければ諦める。
出来ないことを求めなければ、人に頼る必要がないし、甘える必要がない。
当たり前かもしれないが、非常に強固に自己完結が可能であるということ。
自己完結していることは、論理破綻をしないので対人関係でも多くの場合において正当性が得られる。
その結果が
対等以外に関係を築けない
と感じることにつながるのだろう。
個人的には、父親の存在に焦点をあわせるよりも、甘えることの出来ない自分、甘えさせることの出来ない自分に焦点をあわせた方が有意義なのではないかと思う。
詳細かつ率直な分析ありがとうございます。 そうですね、父性対母性のあり方も完全に架空の外部からのインプットに頼っています。 知らないだけに理想化してしまっている部分も多分...