と言うと、すぐに「不幸自慢乙。」と言われてしまいそうだが、僕が言いたいのはそういうことじゃない。
他人と触れ合う機会が少ない、他人とわかり合えたと思うことが少ない、そんな人間である。
別にひきこもっている訳では無いが、日々楽しく暮らしているわけでもない。あるいは世の中そんな人だらけなのかもしれない。ちなみに将来の見通しがあまり無い。
ともかく、孤独は嫌なので、なぜ自分が孤独なのか、ずっと考えてきた。
孤独な人間が出来る事と言えば、大体限られている。とりあえず本を読んだ。
今時本を読んで教養を高めるなど流行らないとわかっていた。読書することで、読書家の有名人に自己投影している自分にも気がついた。それでも、大学で一般教養としてとった日本文学の講師が言っていた通り、自分に合っていると思ったものを、読みたいと思ったものを読んだ。
結果、まぁ今どきにしては読書好きと言えるくらいの量を読んだと思う。
読書が僕にどんな影響を与えたか。はっきりはわからない。それについては町田康がインタビューで言っていたことが、僕の意見に一番近いと思う。
町田 : (前略)だから、あなたの言うように、本を読んで目から鱗、ということはないですね。例えば、大きさがほぼ同じ茶碗を流しで洗っていたら、たまたまガチッと組み合わさってしまってどうしてもとれなくなったとします。それが、本を読んだら「こうすればとれますよ」と書いてあった時に、うわっ、って目から鱗が落ちる。でもそれは生活の知恵ですよね。読書というのは、もっと深い体験だと思います。瞬発的な知識ではなく、じわじわと嫌な形で体にまわって、二日酔いのようになった状態でもう一度、現実に帰っていかなければならない。それが読書だと思います。
(作家の読書道:第52回 町田 康 http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi52.html)
そんな僕が(ここまででもう既に「自分語り乙。」というツッコミを入れられそうだが)最近感じたことがある。
きっかけは、ネット上でちょっとした論争に巻き込まれたことだった。
するとなんだろう、相手に反論されているにも関わらず、湧き上がってくるのは、なぜか充実感に近い感情だった。
というと今度は、「ネット依存症乙。」若しくは、「この変態ドM腐女子が!」と言う人がいるかもしれないが、まぁそれは最後に判断していただきたい。つーか僕男だけど。
僕が思い出していたのは、中学時代、野球部に所属していた頃の事だった。
その部の監督は、常日頃から僕たちに「考えろ」と言ってきた。
僕らを叱り飛ばした後、「なんで怒られたか考えてからもう一回来い」と言って引っ込んでしまう。
時には些細なこと、マナーのこと、あるいは、お前ただ機嫌がわるかっただけちゃうのん?というようなことで監督はバシバシキレた。
それでも僕らは話し合い、監督に対して言うべき事を決め、そしてキャプテンが職員室に突貫して行った。(公立だからもちろん監督=先生)
その頃の感覚。
監督がなぜ怒り、僕らに何を求めているか考えること。
それこそが、コミュニケーションにとって最も重要なことなのではないか。そう感じたのだ。
他人がどう考えているかを考え、動く。そうすることではじめてコミュニケート出来るんじゃないだろうか。
っていうかみんながコミュニケーションコミュニケーション言うから、ちょっとうんざりしている位だ。
コミュニケーションよりも中身が大事なんじゃねぇか、と素朴に思ったりもする。
でも、僕が孤独を感じていたのは、他人の考えについて考える機会が無かったからじゃないか、とも思える。
あるひきこもり臨床医が、「ひきこもりとは四六時中自分について考えている状態だ。」と、とある対談で語っていた。
ちなみに、その対極には、非常にコミュニカティブだが自己イメージが弱く不安定なタイプが存在するらしい。
自分自身について考えすぎているせいで孤独になる。そういうこともあるかもしれない。ちょっと自己啓発系のニオイもするけど。
結論として、僕はもっと他人の考えについて考えるべきなんじゃないかと思っている。
でも、それは僕の懐古心が生み出した幻影なのかもしれない。
というわけで増田に書いてみた次第なんだけど、どうなんだろ。