『デスノート』
『コードギアス』
『東のエデン』
王とは何でしょうか。未開民族の文化の中には、特別なお祭りのときに、村を治める長老がその日だけは罵りの対象になるということがあるそうです。
その意味で、『東のエデン』において滝沢が最後にジュイスに自分を王にしてくれと頼むときに言うせりふは示唆的です。「この国には頭のいいやつがいっぱいいるのに、損な役回りを引き受けるやつがいないんだ」。
ここから導き出されるのは、王とは、実は損な役回りを引き受けるために存在しているのではないか、という考えです。キラもルルーシュも、最後には世界の悪意を一身に受けて死んで生きます。究極の攻撃対象がいるおかげで、そこに攻撃が集中している間は、他への攻撃が行われなくなり、結果として平和が実現されるのです。
しかし、ちょっと待ってください。この国には王がいるはずです。そう、天皇という王が。滝沢がこの国に王がいないと言ったということは、実はこの国においては王であるはずの天皇が王としての機能を果たしていないということを示唆しています。そういえば、アメリカとの戦争に負けたときも、昭和天皇は生き延びてしまいました。彼が真に王であるなら、本来は死ぬべきだったはずです。しかし、彼は死なず、起こったのは天皇の代わりにアメリカが王となるということでした。そう、だからこそ、世界の中心として咲が最初のシーンで見に行った場所が「ホワイトハウス」=日本の王様だったのです。しかし、もちろん現在のアメリカに王としての信頼を我々が持っていないのは明らかです。「ここが世界の中心、なの?」です。「なの?」ということは違うということです。アメリカは王を体現できなくなった。
で、王がいなくても好きにやるさ、ということをやっていたら、あんまりうまくいかなかったと。ニートとか派遣だと。そういうわけで、ミサイル攻撃してやる=破局による価値の回帰をやろうとしたけどそれはあかんと。じゃあやっぱり王様だろう、ということになったわけですが、現実の世界には滝沢もキラもルルーシュもいないのだった。しかしこういうメシアニズムには注意しておかないといけないと思います。