2009-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20091117165637

俺はモテない。

それ自体はさして気にしていなかったが、ある日友人が俺のモテない要素をあげて笑った。些細な、簡単に変えられるようなことだった。だからこそ彼も軽い口調で言い笑ったんだろうし、もしかしたら遠まわしに、直すよう指摘してくれたのかもしれない。けれど俺のプライドは小さく傷ついた。それもまた些細なことだったが、そんなことを繰り返すうちに少しずつ自信がなくなっていった。いや、正確に言うなら、自負をそのままに自信のなさが膨らんでいった。モテ目的にした途端、人に指摘されて直すことに抵抗が生まれる。直したての何かは今の俺が注意を払って選択したもので、俺がそれをモテ要素だと思っていることが明らかになってしまうからだ。しかしそれは、人の目には馬鹿げたものであるかもしれない。非モテの痛々しい勘違いと映ったらと思うと怖かった。

同時に、変えればいい簡単なことだ、そう言って笑える人間がいることを意識した。軽い躊躇が枷になることを知らない彼らに、知らないまま軽々しく変われだなんて言われたくない。知り得ないのは仕方がないが、知らないくせに一体なんなのか。多数派はいつも傲慢だ。俺は自分の変えるべき点をいくつか知っているが、知っているからと言って何故実際に変えなければならないのか、何故モテを求めなければならないのか。異なる価値観を持つ人間に囲まれることも彼らは知らない。なら好きにしろよと言い捨てるが、その言葉さえ彼らの価値観の表れで、それは少数派にとって暴力的でさえある。彼らは多数派であるがゆえに自分価値観に自信を持っているが、それが他人の価値観による他人の評価があってこそのものだと気づいていない。そうして少数派は自分価値観ごまかすんだ。俺はモテたい。しかし変えない。いやモテなくていい。変ったっていい。なにが悪い?

俺は、そしてまた他人のレッテル貼りの対象になる。レッテルも理詰めの人間も嫌いだ。理屈は正しさの証明にも自己弁護にも役立つが、自分の間違いを知る役にはあまり立たない。多数派がそれを理屈と呼ぶから、俺はもう自分でもなにがなんだか分からないくらい価値観まぜこぜで、風潮に乗っかりつつも違和感を感じる。なにもかもそうだ。理屈の上で評価されなければならない。世の中にこの感覚を知る人間と知らない人間がいるなら俺は知る人間と付き合いたいし、知る人間は知らない人間と違う理屈で動くのだから、常に理に従わなければいけない理由はない。理屈に従うべき理由を理屈を用いずに言えないことが、理屈限界だろ?

誰が悪いでもないし、俺は知らない側の人間が羨ましいが、彼らの価値観の中でレッテルを作り、俺に貼り付けるのは止めてほしい。俺に強いるな。

…というようなことを同僚Aは考えているかもしれないなぁと思いました。我ながらツッコミどころがたくさんあるけども(まず自分妄想が!)、同僚Bを馬鹿にしているわけでも擁護しているわけでも決してないです。Aの気持ちもBの気持ちも増田の笑いが乾くのも分かる気がしました。

記事への反応 -
  • 職場の自称非モテがうざかった

    普段は本当に「諦めてます」「期待してません」みたいに振舞っている同僚A。 しかし、時折怨念じみたものを見せる。 完全にそういう類のことを諦めて飄々としてる先輩がいるだけに...

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