二次オタに対し「現実逃避」だとか、「代替で我慢」だとかいった類の言葉を投げかける人がいる。
今まで反発していたけれども、本音を言ってしまえば、その通りだ。
現実で抱き締めたい、柔らかな髪を梳きたい、美しい耳を甘噛みたい、あまり大きくない胸に顔を埋めたい、情を交えたい、子供は二人欲しい、情熱なんていらないから、自然と微笑めるような心地よい倦怠感を共有したい。私はこういう思いを抱いているし、たぶん、他の多くのオタクも同じだと思う。
でも、反射的に努力しろよなどとは言わないで欲しい。或いは、努力は必要かもしれないが、その努力は一般に想像されるものとは全く違ったものだ。確かに二次に陶酔するのは代替でしかない。けれども、何の代替なのか。二次のあの子の代わりになる現実の女はいない。
私は三次元のこの世界に生きているから、この世界の流儀でしか想像できないし、恋できないし、愛せない。だから二次元の存在はいつまでも代替でしかない。私には二次そのものをそれ自体として恋し愛することは出来ない。けれども二次は三次にはなり得ないから、代替で我慢するほか無い。二次という代替か、現実の女という代替か、そのどちらかの代替を選ぶほか無い。前者は愛でることの出来ない本物で、後者は愛でることの出来る偽者。
本来、代替になり得ない2者を同列に並べる発想がおかしいということに気づいてないのかな。 一人の個人と、妄想や共同幻想が作り上げた仮想人格を同列に扱うことに違和感は無いの...
一個人がどんな存在であれ、それを観察・認識する人にとって、その人の人格はたんなる観察者の妄想・幻想に過ぎないよ。ただ、二次元の存在では、妄想中において恣意的な人格の改...
君は自分自身の人格がそんなものだと思っているの? 自分だけは特別だと思うなら、他の人も特別である可能性に気づいてください。
あなたはどちらを選択しましたか?三次の偽者か、近づけない二次の本物か。 思ったのですが、二次元が三次元の代替だったのは初めの頃だけではないでしょうか? 三次元での欲求不満...
二次で何を代替しているんだろう? 二次で代替できるのものは少ないんじゃないだろうか。代替を続けていくことで徐々に三次との接し方に支障をきたす恐れがある気がする。