2009-05-28

書いてみて自己解決

 頭の中がゴチャゴチャとして整理がつかない。どうしていいか分からない時は書いてみるに限る。この整理のつかない状態に、自分なりの道筋をつけてみようと思う。まずは、原因から整理してみる。その理由は至って単純で、実は考えるまでもない。それは、ここ最近自分インプットされたある考えが、自分のそれと大きく異なっていたからだ。その力が強すぎて、自分の思考の一部を壊し、今も尚、消化しきれずにいる。つまり、ぼくは今、自己否定の渦中にいる。自己の否定は息苦しくて嫌なものだが、それを避けたとしても、いずれそれと同等の重みの現実が、身に降り掛かるだけだ。現実として降り掛かった時、何らかの責任を取るのか、今自己否定の辛酸を舐め、自分なりの落としどころを見つけておくのか、そのどちらかだろう。こういう時、ぼくはどちらかと言えば、後者を選択する事が多い。そして今回もまた、後者を選択しようとしている。

 では、ぼくは何をインプットしたのか。それは、自分尊敬する人の圧倒的な経験を元に語られた、そして自分以上に真実を見つめ続けた人物の、それこそ身も蓋もない現実に関する考え方だった。「人は殺生をしないと生きていけない。飯を食わないと生きていけない。食った飯を排泄して生きている。」それは北野武の本にある言葉だ。昔だったら、スゲー事言ってるなぁと感心したかもしれない。しかし今は、ここで言われている言葉意味が深いところで分かってしまう。分かってしまうからこそ、現在自分は否定され、固めていた思考構造の一部は壊された。それはまた、自分の甘えと弱さを炙り出した。つまり、この生存の競争とさえ言える社会を生き抜いていく上で必要な自分武器を、鞘に収めたままでいようとした自分が浮き彫りにしたのだ。本当は刀を抜く覚悟もなく、人に加害する事も無く、こと無かれでやっていく事が通常の自分の性質を、人は「甘い」といった。どうやら、流して聴いていたその指摘の意味が、今ごろになって分かったようだ。ただ、長年の間に染み付いたこの性質は、人に加害するという事を辞さない態度を簡単に受け入れられるはずはない。その理由こそが、自分そのものなのだから。つまり、この気付きは、なかなか消化される性質のものではないのだ。武の言葉は痛い程、自分を炙り出した。つまり、この不安は、自分の性質が、意志の力でコントロールしようとする方向に反発し、不自然な形を感情や態度に表し、元に戻ろうとする感情の発露なのだ。その不安が、その違和感が、自分の方向性を拡散し、混乱を招いている。ぼくはそこに気付けていなかった。

 そうした混乱が、自分の見ている世界を歪ませている為、ここで無理に前進してみたところで、ぼくの見るもの全てから、本当が失われるだろう。その味気なくて偏見に満ちた世界をぼくの現実にしてみても、空虚で詰まらない思いをするだけだ。つまり、自分の壁にぶつかっている時の弊害は、その盲目さにある。それは、言葉イメージの渦に飲み込まれ、フラフラとうろつき回っている無自覚なピエロのようだ。

 そこに気付いているかどうかは、自分と向き合う事を選び、自己に何らかの変化生じさせようとする者にとっては、必要不可欠な事であるのだ。この壁をどう越えるのか、或いは越えられないのかは、まだわからない。いずれにしてもこの問題には、自分なりの決着をつけておく必要があると信じる。

 鞘に収めたまま、今となっては錆付いている刀を使うということは、自分が頑なに守ろうとしていた何かを失う高い可能性を意味している。その拒絶とどう向き合うのか。そこで失われるのは、安全だろうか、信用だろうか、希望だろうか。それらにしがみ付くのは、自分本能である。そしてそれらを脱ぎ捨てようとするのもまた、本能である。こういった、理性ではどうにも思い通りにならぬ自分という存在を支配するのは、意識とは別物のようだ。現時点の僕は、自分そのものを守ろうとする働きかけが強いのだろう。それは弱さとも言い換えられよう。それについて、どこで自分に折り合いをつけるのか、この思考の反芻に決着をつけるのは、思考と試行から生み出される果実の味を自分で知る他はない。

 多くの抵抗を乗り越えた人の精神は強い。目の前に起こる現実自分と周囲による織物のような必然と知っているから。その必然に働きかける事の意味と作用をよく知っているから。舵を取る方向が定まったのなら錨をあげて出立する。気負いのない、自分現実に即したやり方で。

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