2009-03-22

携帯電話で友達と繋がっているけど本当は寂しい



日本では、老若男女1人1台携帯電話を持っている世の中になったといっても過言ではない。

今では小学生でも持っているのが普通だろう。小学4年生くらいになれば、

パパママのせいで友達できないよ」と言われ携帯電話を買わされる。

親としても防犯上の理由で買い与える。

PSPとかニンテンドーDCも同じ、持っていなければBluetoothの輪に入れなく友達から置いてけぼりをくらう)



これだけ携帯電話という情報ツールが当たり前になると、

おのずと副作用社会全体に働くことになる。

副作用といってもそれが良いか悪いかはハッキリしていないので、

ここではそれを銘々で考えて欲しいとしておく。



まず携帯電話流行ることで顕著に現れた副作用が、

人間関係の流動化。携帯電話というのはいつでも取替え可能、

番号やメルアドも変更できて人間関係リセットできる。

ゆえに、いつでも人との繋がりがリセットできるので、

深い話をあまりしないフラットな付き合い方、広く浅い付き合い方をするようになる



そのことで何が起きたかというと、

携帯電話で繋がっているのにどこか不安な状態が続き、

空洞的な気持ちに陥る現象が起きた。そのことが切り口となり過剰の同調が起き、

どこか私の知らないところで悪口を言われてないだろうか。

返事が直ぐ返ってこないから嫌われてるのではないだろうか。

逆に即レスをくれないとコイツもういいや削除しちゃえとなる。



このこで分かる通り、昔みたいな地域共同体家族、親戚、友達の中に埋め込まれているリアルな繋がりではなく、

情報ツールで自分の居場所を補っている。

例えば、悩みや情報などは昔だと家族、友達などから収集、相談をしていたのが、

今はそんなことせずに情報ならネットで調べるし、悩み相談なら面識の無いメル友SNSの相手などで満たされる。



ということは、どこにいても不自由せずに暮らすことができる概念が生まれてくるわけで、

例えばアキバで一時一世を風靡した個人が自分のコレクションを売る小ケース制度というものがあった。

それに紛れ込んでくるレア商品目的オタクアキバに通いチェックしていた。

そこでしか手に入らないからアキバという場所は価値があった。

しかし、ネットオークションが当たり前になった今では小ケース制度はなくなり、

コミケなどもだんだん淘汰されてきている。

つまり、アキバに行かなくても情報ツールが満たしてくれて、アキバへ行く必要がないとなるわけだ。



今はまだ、携帯電話という低レベル情報ツールしか蔓延していないが、

これからはもっと技術が発展しどうなるか分からない。一つの例としてコテハンがある。

コテハンとは固定ハンドルネームの略で、

言うならばリアル世界で役職や場所、性別、アイデンティティが変わってもコテハンだけは変わらずネット内で存在自分を維持できる。



時期尚早となったセカンドライフコテハンの発展版と言っていいだろう。

確かにまだ時代の流れとして社会に溶け込まなかったセカンドライフだが、

コテハンアバターがつき臨場感ある3Dの世界へ在住する人は少数ながらいる。

もしこれから、こんなネットのアチラ側在住がマジョリティになればどうなるだろうか。

ネットに魂を置きリアルではご飯と入浴、排便をするだけみたいな、

リアル社会よりネット社会が主になる考え方にシフトしていく可能性も否定できない。



宮台氏がもっとも視座していたのが、昔の非流動型共同体(場所に拘る)と現代の流動型人間関係(場所に拘らない)、

どっちが良いか分からないが、こういうことを知って考える必要があるのではないかと示唆している。

でないと、ネットのアチラ側に在住した場合、リアルの場所には拘らないわけだから愛国心すら希薄になる。

この先IT技術科学が発展し、言語と稼ぎ方の革命が起きるとより暮らしやすい海外に行くのは必然になるだろう。

別に、愛国心でも愛郷心でもどちらでもいいのだが、茹で蛙愛郷心になるのはどうかと思う。



現在ではまだ、技術も発展中で非流動型もかなり残っているわけだから、

今一度、友達がいるけど寂しい状態ではなく本当の寂しさを補う事とは何ぞや、

本当の絆とは何ぞやと、改めて意識する必要があるのではないだろうか。


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