2009-02-03

 アジア諸国には成長の余力がある?

 アジア諸国には成長の余力がある?

 後進国に成長の余地があるのは事実であるが、その成長ができないから後進国なのである。

 後進国後進国である理由を解決しない限り、何をやっても成長はしない。表面的に景気を良くする事はできても、その産業は、人件費公害対策費といったコストを切り詰めて先進国の既存事業者の売上を奪う、価格破壊ビジネスでしかない。

 先進国の既存事業者が廃業や後進国に転進して雇用が失われれば、購買力が衰え、輸出で利益を上げていた後進国産業も、立ち行かなくなる。

 グローバリゼーションの失敗を、失敗ではないと言い張り、恐慌が発生しているのはアメリカの強欲な金融機関のせいであるということにしておかないと、後進国・中進国の支持を得られないのであろう。

 だが、そんな支持を得て、何になるというのであろうか。

 多数決戦争国際紛争が解決できないように、多数決恐慌が解決できるわけではない。

 そういう意味では、政治は無力である。

 政治にやれることは、雇用を生み出すために、障壁となっている規制や許認可、自己責任を無視して懲罰的損害賠償を請求した方が儲かる裁判といった、変化を拒絶する制度を改め、雇用余力を失いつつも利益を上げている企業に、直接雇用ではない形での雇用を実現させる事である。

 後進国先進国並にするには、厳しい規制や許認可で人民企業を縛り上げ、お手本どおりにやることを強制していくしかない。処方箋が正反対にみえるが、お手本にどの部分を選ぶかによって、効果が大きく違ってくるということである。

 人民教育するには、学校を作って終わりという事ではない。社会人としての生活すべてが教育であり、教育に従わせる為に、終身雇用のような流動性の無いに等しい社会が必要になる。

 ただし、終身雇用体制を作っても、共産主義国家のように教育内容が間違っていると、先進国への成長はできない。部族社会農業依存国のような場合でも、宗教教育を支配していたりすると、やっぱり、先進国にはなれないのである。

 流動性の無い社会の弊害が表面化するまでに先進国に追いつけるかどうかが、このプランリスクであるし、弊害が表面化したときに、社会性を維持したまま自己責任原則を主体とした社会に変革できるかが、本当の意味での先進国になれるかどうかのチャレンジとなる。

 終身雇用状態では、社会性の欠落に対して出世をさせないで飼い殺しにするという罰則が存在したが、その弊害が無視できなくなると、終身雇用状態を打ち切る事になる。すると、リストラと称しての解雇が可能になる。

 だが、それは雇用消失であり、企業決算はよくなるが、社会の景気自体が悪化するので、内需が減り、短期的な繁栄に終わってしまう。社会を維持するには、結局のところ、失われた雇用企業が、間接的に補わなければならなくなるのである。

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