2008-11-28

思うことを否定したあの人へ

あのころ「ちぐはぐだからべき論を使おうぜ?」といった貴方はいかがお過ごしでしょうか。「べき論」を使うとどこか狂信者っぽくなり、そうかといって「だ!」とか「である!」はむっとくるので増田は相変わらず「思う」とか「考える」とか「分かる」とか「感じる」を使ってます。ええ、あいまいにぼやかして己の無能さを隠す便利な言葉です。と同時にこれからも便利な言葉であり続けます。

そもそも増田が「思う」や「考える」を選んだのは「べき」や「断定」には確固たる客体――具体的にいえばデーターや数値などが必要でありながらも用意できず、さらに十人のうち一人は最低でも確保できる理を詰めることも要求されてもかなわず、当然のごとく突き動かす主体たる自信が必要にもかかわらずなかったからなのです。ある意味では一見まともなようで、裏を返せばとどのつまりまともでも何でもありません。当時の増田は「思ったことを思ったと書く」とバカ正直でしたが、貴方はきっとこういいたかったのでしょう。そんなものを載せるくらいなら「べき」といえるまで吟味せよ、推敲せよ、自信を持て、と。けれどもどれだけの人間が可能でしょうか。私、増田はあれから三年も四年も経っているにも関わらず、疑わしいけれど上手に言葉にできない域を出ていません。

故に、増田は「思う」から「感じる」などの弱いニュアンスをただただ使い続けてきました。ですが、それだけでもありません。それらの言葉が単なる知能弱者情報弱者が使う言葉なのかと疑い続けてもいました。けれども相変わらず答えは出ません。いいえ、簡単に答えが出てもまずい気がします。ただ、答えに手が届いているような気がするのです。貴方が憶測だけで語るのはやめなさいというのに対して、私増田は憶測でしか語れないのではないかと思い至ったからです。

数値やデーターなどの確証を提示したとしても、このかくも生きにくい情報世界では信じたいものが選ばれているのではないかと錯覚なのか実態なのか分からないものを感じます。またどれほど真っ当な意見であれ、矮小増田が、また他人様が、他人様に「べき」と申し上げるのはあまりにもおこがましいとは思えてならないのです。最後の卑屈さは私増田が思いつくことなど、いえ増田ではなく他人様であっても、お釈迦様や偉大な先人方がもう通り過ぎている道ではないかと打ちひしがれたからです。私たちは同じような生活を繰り返し、思考し、言い合い、それでも十年も二十年も経過しても人が変わるだけで中身は繰り返されるのではないかと首を傾げてしまうのです。ととのつまり、「べき」といえるような資格は極端に記せば誰にもないのではないか? と。貴方の流儀で記せば「べき」というべきではない、でしょうか。

とはいえ、全てが増田妄想ならそれでも構いません。ただ、もし妄想ならば余計に増田は「べき」と語れません。凝り固まった妄想は狂気以外の何物でもないでしょう。

それでは、いつか見た貴方が読まれることを祈りつつ、私増田は眠りにつきます。

また再び杯を交わすように話を交えたいですが、お許しいただけるのでしょうか?

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