2008-06-12

いまごろ秋葉原を血に染めていたのだろうか

駅のホームにたまに、大きな声でぶつぶつとつぶやいてる人がいるじゃないですか。あれ、たいてい怒ってるんですよね。すごいおもしろいネタをつぶやいてる人なんかたぶんいない。誰に対して怒ってるのか分からないですけど、きっとあの人たちには何かが見えている。そして怒りを抱いている。

同じような人が何人もいるってことは、あれはたぶん「病気」と分類してもおかしくない症状で、でもその境界はすごくあいまいだから病気かどうかははっきりしない。少なくとも「まとも」ではない。そこに至ってしまった原因は確実に存在していて、原因があるということは誰でもああなる可能性があるんじゃないかと。その「原因」ってのは、もしかして「孤独」なんじゃないか、と。学生時代、ずっとそんなことを考えていた時期があった。俺も孤独でおかしくなりそうだったから。

孤独」が自分を狂わせつつあることに気付いた瞬間、自分が変わってしまうことに恐怖を感じて、どうにか脱出しようと別の次元昇華させる方法を模索してもがいていた。でもずぶずぶと底なし沼にハマって身動きがとれなくなってしまった。高望みだった。自分にはそんな才能はなかった。あまりに無力で情けなくてさらに孤独を深めていった。

本質的に人間孤独ですからね。仕事趣味に没頭してたり、自分以外の誰かことを考えたり、と自分の脳みそのキャパから孤独を追い出すことに成功しているうちはきっと歪みは最小限に食い留められるけど、脳みそに余裕があって使いどころがなくなると、埋め合わせるかのように自分のことについて考えたがる。それは孤独について考えるのと同義ですよ。周りが見えないし分からないからすごく理不尽で、つらい。知らないうちに自分以外の何かを仮想敵に仕立て上げて、途端に、その孤独から派生して妬み恨み嫉み僻みが生まれて・・・。この負のインフレーションは本人にとっては不可抗力。でも進まなきゃいけないんだよ、どげんかせないかん。デフォルトの状態で幸せになれるほど、この世の中はうまくできていない。それに気付けただけでも良かった。

あれから自分は運よく仲間を見つけ、仕事に就いて、守るべき人ができて・・・、と脳みそのキャパを埋めてそこから脱出することができた。本当に運が良かった。でも、なかにはどうしようもなく深く傷つけてしまって、もう修復不可能になってしまった彼ら・彼女らがいる。あんなに心の支えになっていたのに・・・と今となっては悔やんでも悔やみきれない。いまでもたまに夢に出てくるよ。それは俺のエゴでしかないけど、会って謝りたいんだ。いま振り返ると、なんであんなことをしたのかさっぱり理由が分からない。だから、もしかしたら、俺は無意識のうちに彼ら・彼女らを傷つけることでなんとか自我を保ってきたのかもしれない。と仮定すると、秋葉原で彼が人を殺したことと、俺が人を傷つけながら生きてきたことは、同じベクトル上に存在するのかもしれない。

雨降る東京ワンルームマンションの一室で天井を見上げて涙した日のことを思い出した。なんで俺だけこんな目に遭わなければいけないんだ、と希望が見えなかった。もし自分にほんのわずかばかりの運も縁も才能も、そして努力もなかったら、いまごろ秋葉原を血に染めていたのだろうか。

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